直訳で「完全な完璧主義になれますか?」
ずいぶん前に Scientific American
(Nature と並んで有名な一般科学誌。日本では解説記事だけ訳された日経サイエンスとして出版)
に掲載された記事の日本語訳が、手元に眠っていたので、
暇に任せて読んでいると、とても自分に当てはまる内容だったので、
とても刺激的な内容だった。
内容は
全ての完璧主義者が、
完璧に物事を運んでいるわけではなく、
完璧に物事を運ぼうとする志向が強い人ほど、
「不健全に」なってしまい、
むしろ本来の力を出せないままになってしまう
という話だ。
完璧に物事を運ぼうとする志向が強い人
とは、
自分自身に最大限の優秀さを求める人に対して使われており、
そのような人々は、
失敗に対する恐怖と、内省的な自己批判に終始してしまう
と結ばれている。
ミスを気に病む
ことと
他人からの期待を重荷に思う
落ち込み易い
ことに対して、強い相関があると指摘されている。
2007年の研究では
米国大学生の1/4が、「不健全な」完璧主義者になっているそうだ。
一方で、
完璧主義的な側面が、
その人の向上心と結びついている側面も否定することが出来ず、
実際に、
リラックスしつつ成功を入念に追求する
自分の強みを発揮することに集中し、自分が達成した事に対して、非常に大きな満足を発揮する
といった、
前向きな完璧主義と、
テストや、スポーツの成績とに相関がある
という結果が出ているそうだ。
このような「健全」な完璧主義に
「不健全な」完璧主義者を誘導するための
カウンセリングについてもわずかに触れられており、
完璧主義を促している状況や、
歪んだ思考パターンを特定して、
治療計画を設計しているそうだ。
つまり
「行き過ぎた自己批判」を指摘し、
「不完全になる練習」を促すそうだ。
このようなカウンセリングを4~8週間行った
小規模な調査によると、
強迫性障害、うつ、過食症が緩和した
といった結果が出ているそうだ。
最後に、
自らが、「不健全な」完璧主義者に陥っていないか
についてのテストが掲載されていて、
僕は見事に、陥っていた。
完璧主義を判定する基準ポイントが、42で
(ちょうど完璧主義者かそうでないかの分水嶺)
不健全さを表す、不一致ポイントが74だった
(42ポイント以上で完璧主義がマイナスに作用しているかも)
自分を見つめ直す切っ掛けにしたい。
2010/07/10
ひどい記事だな
阪大と九大が消滅する規模、国立大学の運営費交付金が大幅削減される可能性
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20100708_university/
http://gigazine.net/index.php?/trackback/16261/EZAK4fiZ/
引用元もひどいけど、
引用された後はさらにひどい。
タイトルで強調するところが間違っている。
Gigazine
産経
と書いてある所をよく読むと、
・社会保障費の純増分が、総予算の規模の純増とする。
つまり、
・仕分け結果(を受けての見直しによる)からの、予算圧縮がない
・各省庁が、一様に負担する(これはある程度妥当か)
・上の前提のもとでの負担分を、全て国立大学法人運営費交付金に当てはめてみる。
という前提に立っている。
単純にシーリング(予算に上限を掛けること)を掛けることは、
民主党は、第一回の事業仕分けで、
とくに、科学技術予算などの結果に対して、
あまり、似つかわしくないとの見解が出て、
減額幅が、(事業仕分けから)修正された経緯がある。
また、運営交付金は、たとえであって、
よく使われる、東京ドーム何個分とおんなじぐらいの意味。
それをメインタイトルにするのは、あまりにも滑稽(そう映らないのかもしれないけど)。
東京ドームXX個が無くなる可能性も、不況によって、オフィス稼働率が減少
というニュースと対して変わらない表現だと思う。
シーリングは、
これ以上は予算規模を増やさないという事を言っているので、
削減対象になりにくい運営費等だけが、削減されるというのも馬鹿げたはなし。
メディアって、
ホントに、それでもプロか?って言いたくなるほど、
誤解てんこ盛りの表現をする。
第二回は、削減幅に前提を置かないとした事を踏まえても、
シーリングを書ける場合は、慎重に対応すべきなのは確か。
数字は、見せ方でいろんな表情を持つので、
冷静になって、見ないと勘違いした事を主張してしまう。
きっと、こういう事を、
役人に踊らされるっていうんだろうな。
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20100708_university/
http://gigazine.net/index.php?/trackback/16261/EZAK4fiZ/
引用元もひどいけど、
引用された後はさらにひどい。
タイトルで強調するところが間違っている。
Gigazine
試算によって算出された削減割合を機械的に国立大学法人運営費交付金にあてはめた場合、削減額は約927億円にのぼり、2010年度までの7年間で削減された同交付金の削減額830億円を上回るとされています。
産経
文科省では年額1兆3千億円で伸びる社会保障関係経費を踏まえると、その他の一般歳出は年率8%の削減を余儀なくされると試算。これを機械的に国立大学法人運営費交付金にあてはめた場合、削減額は約927億円に上る。
と書いてある所をよく読むと、
・社会保障費の純増分が、総予算の規模の純増とする。
つまり、
・仕分け結果(を受けての見直しによる)からの、予算圧縮がない
・各省庁が、一様に負担する(これはある程度妥当か)
・上の前提のもとでの負担分を、全て国立大学法人運営費交付金に当てはめてみる。
という前提に立っている。
単純にシーリング(予算に上限を掛けること)を掛けることは、
民主党は、第一回の事業仕分けで、
とくに、科学技術予算などの結果に対して、
あまり、似つかわしくないとの見解が出て、
減額幅が、(事業仕分けから)修正された経緯がある。
また、運営交付金は、たとえであって、
よく使われる、東京ドーム何個分とおんなじぐらいの意味。
それをメインタイトルにするのは、あまりにも滑稽(そう映らないのかもしれないけど)。
東京ドームXX個が無くなる可能性も、不況によって、オフィス稼働率が減少
というニュースと対して変わらない表現だと思う。
シーリングは、
これ以上は予算規模を増やさないという事を言っているので、
削減対象になりにくい運営費等だけが、削減されるというのも馬鹿げたはなし。
メディアって、
ホントに、それでもプロか?って言いたくなるほど、
誤解てんこ盛りの表現をする。
第二回は、削減幅に前提を置かないとした事を踏まえても、
シーリングを書ける場合は、慎重に対応すべきなのは確か。
数字は、見せ方でいろんな表情を持つので、
冷静になって、見ないと勘違いした事を主張してしまう。
きっと、こういう事を、
役人に踊らされるっていうんだろうな。
2007/08/31
勘違いか、それとも本質的か③
前回は
①「ある現象」が観測された ならば
「ある原理」が想定される
について、解釈した結果、次の様なことを得ることが出来ました。
/////////////////////////////////////////////////////////////
①は
自然現象が、本来的にその性質を備えている
という、観点に立脚しておらず、
我々(人間)が、観測することによってその性質を現す
という危うさをはらんだ観点である一方
演繹と帰納が、
原理と観測に対応する事を意味しており、
かなり、いい具体像を提供してくれる。
という、メリットとデメリットが同時に成立している。
/////////////////////////////////////////////////////////////
では、今回は①の「逆」
②「ある原理」が仮定される ならば
「ある現象」は観測される
を、解釈してみます。
前回同様こういう言い換えは可能ですね。
「ある原理」が存在する時、その現象に対応する、
「ある現象」が存在する。
これは、順番としては、
原理が存在して、初めて現象が確認される。
ということが言えます。
自然界の構造は、はじめから原理が存在するわけですから、
自然界に極めて近いですね。
必要十分という言葉に戻りましょう。
「ある原理」が想定される は、この場合
「ある現象」が観測される 為の十分条件で
逆に、
「ある現象」が観測された 事は、
「ある原理」が想定される 為の必要条件です。
前回同様に不等号で包含関係を表すと
「原理」⊇「現象」⊇「観測」
となります。
やはりこちら側は、自然界の構造を現していますね。
結論として述べるならば、
前回の
①「ある現象」が観測された ならば
「ある原理」が想定される
は、自然現象を理解、解釈してゆく課程を
②「ある原理」が仮定される ならば
「ある現象」は観測される
は、自然界そのものの構造を表している
ということができるでしょう。
したがって、科学という方法論で用いるべきは、
①であって、その結果
②という結果を得るというべきでしょう。
①「ある現象」が観測された ならば
「ある原理」が想定される
について、解釈した結果、次の様なことを得ることが出来ました。
/////////////////////////////////////////////////////////////
①は
自然現象が、本来的にその性質を備えている
という、観点に立脚しておらず、
我々(人間)が、観測することによってその性質を現す
という危うさをはらんだ観点である一方
演繹と帰納が、
原理と観測に対応する事を意味しており、
かなり、いい具体像を提供してくれる。
という、メリットとデメリットが同時に成立している。
/////////////////////////////////////////////////////////////
では、今回は①の「逆」
②「ある原理」が仮定される ならば
「ある現象」は観測される
を、解釈してみます。
前回同様こういう言い換えは可能ですね。
「ある原理」が存在する時、その現象に対応する、
「ある現象」が存在する。
これは、順番としては、
原理が存在して、初めて現象が確認される。
ということが言えます。
自然界の構造は、はじめから原理が存在するわけですから、
自然界に極めて近いですね。
必要十分という言葉に戻りましょう。
「ある原理」が想定される は、この場合
「ある現象」が観測される 為の十分条件で
逆に、
「ある現象」が観測された 事は、
「ある原理」が想定される 為の必要条件です。
前回同様に不等号で包含関係を表すと
「原理」⊇「現象」⊇「観測」
となります。
やはりこちら側は、自然界の構造を現していますね。
結論として述べるならば、
前回の
①「ある現象」が観測された ならば
「ある原理」が想定される
は、自然現象を理解、解釈してゆく課程を
②「ある原理」が仮定される ならば
「ある現象」は観測される
は、自然界そのものの構造を表している
ということができるでしょう。
したがって、科学という方法論で用いるべきは、
①であって、その結果
②という結果を得るというべきでしょう。
2007/08/27
勘違いか、それとも本質的か②
前回は、
①「ある現象」が観測された ならば
「ある原理」が想定される
その「逆」
②「ある原理」が仮定される ならば
「ある現象」は観測される
のどちらが科学的かという、所で終わりました。
では、理論物理を目指している人間らしく、
具体的に夫々を、解釈していきましょう。
①「ある現象」が観測された ならば
「ある原理」が想定される
はどう解釈すべきでしょうか。
こういう言い換えは可能ですね。
「ある現象」が存在する時、その現象に対応する、
「ある原理」が存在する。
これは、順番としては、
現象が確認されて、初めて原理が存在する。
という事がいえます。
歴史的な順番に極めて近いですね。
一方、この視点は現象が確認されない限り、
その原理は、存在し得ないという観点も持っています。
これは、
自然現象が、本来的にその性質を備えている
という、観点に立脚しておらず、
我々(人間)が、観測することによってその性質を現す
という危うさをはらんだ観点です。
必要十分という言葉に戻りましょう。
「ある現象」が観測された
は、この場合
「ある原理」が想定される
為の十分条件で
逆に、
「ある原理」が想定される
事は、
「ある現象」が観測された
為の必要条件です。
この、必要十分条件が一致した時、
厳密に、自然現象を捉えることが出来たと考えるならば、
「現象の観測」は、
「現象の原理」に対して、十分条件なわけですから、
「厳密に、自然現象を捉える」=「現象」(と定義すると)
「現象」より、「観測」は条件として、
含んでいるか等価
になります。 同様に
「現象」より、「原理」は条件として、
含まれているか等価
となるわけです。
包含の記号が無いので、不等号で代用しますと、
「原理」≦「現象」≦「観測」
となるわけです。
イメージとしては、
原理が現象の中に転がっていて、
観測においては、
現象を正確に捉えるのには少しゆるい条件で、
観測結果が得られる。
と、なるのです。
このイメージは、
演繹と帰納が、
原理と観測に対応する事を意味しており、
かなり、いい具体像を提供してくれます。
まとめますと、①の観点は
自然現象が、本来的にその性質を備えている
という、観点に立脚しておらず、
我々(人間)が、観測することによってその性質を現す
という危うさをはらんだ観点である一方
演繹と帰納が、
原理と観測に対応する事を意味しており、
かなり、いい具体像を提供してくれる。
という、メリットとデメリットが同時に成立しているわけです。
僕が定義していた、必要性、十分性は、
二つ目のメリットから来ています。
しかし、デメリットがあるわけです。
これによって、逆である②を考えなくてはなりません。
話が長くなってしまうので、
これまた次回にいたしましょう。
①「ある現象」が観測された ならば
「ある原理」が想定される
その「逆」
②「ある原理」が仮定される ならば
「ある現象」は観測される
のどちらが科学的かという、所で終わりました。
では、理論物理を目指している人間らしく、
具体的に夫々を、解釈していきましょう。
①「ある現象」が観測された ならば
「ある原理」が想定される
はどう解釈すべきでしょうか。
こういう言い換えは可能ですね。
「ある現象」が存在する時、その現象に対応する、
「ある原理」が存在する。
これは、順番としては、
現象が確認されて、初めて原理が存在する。
という事がいえます。
歴史的な順番に極めて近いですね。
一方、この視点は現象が確認されない限り、
その原理は、存在し得ないという観点も持っています。
これは、
自然現象が、本来的にその性質を備えている
という、観点に立脚しておらず、
我々(人間)が、観測することによってその性質を現す
という危うさをはらんだ観点です。
必要十分という言葉に戻りましょう。
「ある現象」が観測された
は、この場合
「ある原理」が想定される
為の十分条件で
逆に、
「ある原理」が想定される
事は、
「ある現象」が観測された
為の必要条件です。
この、必要十分条件が一致した時、
厳密に、自然現象を捉えることが出来たと考えるならば、
「現象の観測」は、
「現象の原理」に対して、十分条件なわけですから、
「厳密に、自然現象を捉える」=「現象」(と定義すると)
「現象」より、「観測」は条件として、
含んでいるか等価
になります。 同様に
「現象」より、「原理」は条件として、
含まれているか等価
となるわけです。
包含の記号が無いので、不等号で代用しますと、
「原理」≦「現象」≦「観測」
となるわけです。
イメージとしては、
原理が現象の中に転がっていて、
観測においては、
現象を正確に捉えるのには少しゆるい条件で、
観測結果が得られる。
と、なるのです。
このイメージは、
演繹と帰納が、
原理と観測に対応する事を意味しており、
かなり、いい具体像を提供してくれます。
まとめますと、①の観点は
自然現象が、本来的にその性質を備えている
という、観点に立脚しておらず、
我々(人間)が、観測することによってその性質を現す
という危うさをはらんだ観点である一方
演繹と帰納が、
原理と観測に対応する事を意味しており、
かなり、いい具体像を提供してくれる。
という、メリットとデメリットが同時に成立しているわけです。
僕が定義していた、必要性、十分性は、
二つ目のメリットから来ています。
しかし、デメリットがあるわけです。
これによって、逆である②を考えなくてはなりません。
話が長くなってしまうので、
これまた次回にいたしましょう。
2007/08/24
勘違いか、それとも本質的か
依然にこのブログに掲載した、
拙著
「科学とは」http://sch-view.blogspot.com/2006/12/blog-post.html
「科学と研究」http://sch-view.blogspot.com/2007/01/blog-post.html
について、考え直す必要性が出てきました。
従来通り、
必要性と十分性の中に、現象は存在し、
その現象を示す方法論として、科学は存在する。
という主張は変わりないのですが、
何が十分で何が必要かという点について、考え直さなければなりません。
上記の二つにおいては、
演繹「仮説」「理論」
帰納「現象」「実験」
として、
前者を「必要」、後者を「十分」性による展開としております。
ここで問題になるのは、
「必要性」と「必要条件」の差異です。
「必要性」による展開は、前述の二つのブログで、
僕が勝手に定義したものです。
「必要条件」はいうまでもなく、論理学の中に位置付けられた、
一般的な方法論です。
従って、定義さえ正確ならば、
「必要性」と「必要条件」の性格的一致はいらないのですが、
実際上、そこに数理科学に於ける本質な困難が隠れているような気がいたします。
つまり、何を命題とするかという問題です。
僕が、二つのブログの中で命題としたのは、
「ある現象」が観測された ならば
「ある原理」が想定される
という命題です。
この命題は、
現象から理論を導き出す
という目的の元に、立てられています。
しかしながら、その「逆」について考えると、
「ある原理」が仮定される ならば
「ある現象」は観測される
という命題も、説得力があります。
この命題は、仮定を先において、
現象と付き合わせるという、方法論です。
これは、鶏が先か、卵が先か という議論とよく似ています。
結局、問題なのは、どちらがより科学的なのか
という点です。
この点について、どう「解釈」するのか、
次回の投稿までに考えておきます。
科学において、現象や理論を、どのように解釈するのか
という事は、非常に本質的で、
それはつまり、
何を命題にするのか、
解釈することによって選びなさい
という事を意味しています。
この解釈がより正確であるならば、
より確かな像を、理論は我々に提供してくれるでしょう。
従って、解釈の難しさは、全く持って本質的なのです。
では、次回をお楽しみに。。。
拙著
「科学とは」http://sch-view.blogspot.com/2006/12/blog-post.html
「科学と研究」http://sch-view.blogspot.com/2007/01/blog-post.html
について、考え直す必要性が出てきました。
従来通り、
必要性と十分性の中に、現象は存在し、
その現象を示す方法論として、科学は存在する。
という主張は変わりないのですが、
何が十分で何が必要かという点について、考え直さなければなりません。
上記の二つにおいては、
演繹「仮説」「理論」
帰納「現象」「実験」
として、
前者を「必要」、後者を「十分」性による展開としております。
ここで問題になるのは、
「必要性」と「必要条件」の差異です。
「必要性」による展開は、前述の二つのブログで、
僕が勝手に定義したものです。
「必要条件」はいうまでもなく、論理学の中に位置付けられた、
一般的な方法論です。
従って、定義さえ正確ならば、
「必要性」と「必要条件」の性格的一致はいらないのですが、
実際上、そこに数理科学に於ける本質な困難が隠れているような気がいたします。
つまり、何を命題とするかという問題です。
僕が、二つのブログの中で命題としたのは、
「ある現象」が観測された ならば
「ある原理」が想定される
という命題です。
この命題は、
現象から理論を導き出す
という目的の元に、立てられています。
しかしながら、その「逆」について考えると、
「ある原理」が仮定される ならば
「ある現象」は観測される
という命題も、説得力があります。
この命題は、仮定を先において、
現象と付き合わせるという、方法論です。
これは、鶏が先か、卵が先か という議論とよく似ています。
結局、問題なのは、どちらがより科学的なのか
という点です。
この点について、どう「解釈」するのか、
次回の投稿までに考えておきます。
科学において、現象や理論を、どのように解釈するのか
という事は、非常に本質的で、
それはつまり、
何を命題にするのか、
解釈することによって選びなさい
という事を意味しています。
この解釈がより正確であるならば、
より確かな像を、理論は我々に提供してくれるでしょう。
従って、解釈の難しさは、全く持って本質的なのです。
では、次回をお楽しみに。。。
2007/01/26
数学・理科学アーカイブ
提言とは、以前より幾度となく言い続けてきたことです。
ネット上に数学、理科学に関する公式、定理、法則、現象に関するあらゆるものの
総合的なアーカイブを作るべきではないかというものです。
巷に八百万(やおよろず)の教科書はあれど、
完全に、科学的に書かれた教科書は、ごくごく一部です。
特に応用分野では甚だしく、途中変換がわからなくなるような
荒い教科書が多々あります。
その時、学習者としては、著者の間違いなのか、ただ計算できないだけなのかがわかりません。
原因としては、容易にその基礎となる学問に触れることが出来ない点にあります。
つまり、確かに参考文献として教科書は挙げられていますが、それらもまた完全なものではなく、
逐一そのような形で、調べていっても無駄な時間をすごすだけで、
折角、蓄積されてきた、過去の偉人の遺産を無駄にしているとしかいえません。
また、単に学習者だけではなくて、
研究者にとっても、そのようなわずらわしい作業はまったく研究に役に立ちませんし、
早く正確な情報を得ることが出来るに越したことは無いわけです。
しかしながら、単にそれらの情報をまとめるということでは、弊害が起きてしまいます。
一つに、誰がその情報に対して責任を持つのかという点です。
もう一つに、どのように伝えるかという点です。
全ての情報を、同じ人が全て書いたならば、それは最もいいことですし、
責任の所在、信憑性の評価が出来ます。
しかし、全科学、全数学となると話は違います。
ようは、一人ではムリだということです。
また、種種の教科書を読んでいればわかるように、
あることをテーマにしていたとしても、その教え方は千差万別で、
かなりの年月を経てやっと落ち着いてきます。
数十年という長い長いスパンです。
ようは、理論に対する、多様な伝え方が可能なメディアでなくてはなりません。
従って、
教科書の様な伝えるページ
各定理や公式、法則などをアーカイブするデータベース
を、例えば証明法をランダムに表示することで伝えるなどして
または、加筆可能にしたり、
議論の場を設けたりすることによって、
双方向的なメディアにすべきではないかと思います。
データベースは不特定多数が、
教科書は、個人の責任で(詰まり自分のページ等の形で)
執り行うということです。
ここで、信憑性に対しての議論ですが、
論文と、このメディアは一緒にすべきでは無いと思います。
つまり、このメディアは、理解しやすくするために作られたもので、
論文としての価値はありません。
ただ、法則を、例えば議論中のページなどを設けることによって、
またそこに論文のアドレス(どの雑誌の何号何ページ目か)を掲載することによって
信憑性を設けるべきだと思います。
このようなメディアを用いると、
世界の研究速度は一気に加速すると思われます。
簡単に言えば、どこにどんな問題がどのような形で提示されているかがリアルタイムでわかるからです。
そして、このメディアの書き込み(書き換え)履歴から、誰が書き込んだのか(特定可能にすべき)
を明らかにすることによって、専門家がその分野に対してしっかりとした説明をしたことになるので
かなり明確に、諸問題が浮き彫りになると思います。
このようなメディアは、しかしながら、
しっかりとした国際的な団体によって、管理されなければなりません。
また、各種学会による「全面的な」支援が必要です。
一個人、一大学などでは到底不可能な世界だということです。
このようなメディアの登場によって、
よりフレキシブルな科学研究の場が実現することを願っています。
ネット上に数学、理科学に関する公式、定理、法則、現象に関するあらゆるものの
総合的なアーカイブを作るべきではないかというものです。
巷に八百万(やおよろず)の教科書はあれど、
完全に、科学的に書かれた教科書は、ごくごく一部です。
特に応用分野では甚だしく、途中変換がわからなくなるような
荒い教科書が多々あります。
その時、学習者としては、著者の間違いなのか、ただ計算できないだけなのかがわかりません。
原因としては、容易にその基礎となる学問に触れることが出来ない点にあります。
つまり、確かに参考文献として教科書は挙げられていますが、それらもまた完全なものではなく、
逐一そのような形で、調べていっても無駄な時間をすごすだけで、
折角、蓄積されてきた、過去の偉人の遺産を無駄にしているとしかいえません。
また、単に学習者だけではなくて、
研究者にとっても、そのようなわずらわしい作業はまったく研究に役に立ちませんし、
早く正確な情報を得ることが出来るに越したことは無いわけです。
しかしながら、単にそれらの情報をまとめるということでは、弊害が起きてしまいます。
一つに、誰がその情報に対して責任を持つのかという点です。
もう一つに、どのように伝えるかという点です。
全ての情報を、同じ人が全て書いたならば、それは最もいいことですし、
責任の所在、信憑性の評価が出来ます。
しかし、全科学、全数学となると話は違います。
ようは、一人ではムリだということです。
また、種種の教科書を読んでいればわかるように、
あることをテーマにしていたとしても、その教え方は千差万別で、
かなりの年月を経てやっと落ち着いてきます。
数十年という長い長いスパンです。
ようは、理論に対する、多様な伝え方が可能なメディアでなくてはなりません。
従って、
教科書の様な伝えるページ
各定理や公式、法則などをアーカイブするデータベース
を、例えば証明法をランダムに表示することで伝えるなどして
または、加筆可能にしたり、
議論の場を設けたりすることによって、
双方向的なメディアにすべきではないかと思います。
データベースは不特定多数が、
教科書は、個人の責任で(詰まり自分のページ等の形で)
執り行うということです。
ここで、信憑性に対しての議論ですが、
論文と、このメディアは一緒にすべきでは無いと思います。
つまり、このメディアは、理解しやすくするために作られたもので、
論文としての価値はありません。
ただ、法則を、例えば議論中のページなどを設けることによって、
またそこに論文のアドレス(どの雑誌の何号何ページ目か)を掲載することによって
信憑性を設けるべきだと思います。
このようなメディアを用いると、
世界の研究速度は一気に加速すると思われます。
簡単に言えば、どこにどんな問題がどのような形で提示されているかがリアルタイムでわかるからです。
そして、このメディアの書き込み(書き換え)履歴から、誰が書き込んだのか(特定可能にすべき)
を明らかにすることによって、専門家がその分野に対してしっかりとした説明をしたことになるので
かなり明確に、諸問題が浮き彫りになると思います。
このようなメディアは、しかしながら、
しっかりとした国際的な団体によって、管理されなければなりません。
また、各種学会による「全面的な」支援が必要です。
一個人、一大学などでは到底不可能な世界だということです。
このようなメディアの登場によって、
よりフレキシブルな科学研究の場が実現することを願っています。
2007/01/03
科学と研究
◆はじめに
前回は「科学とは」という問いに対して「思考様式である」という結論を導いました。
詳しくは前回「科学とは」を参照を参照してください。
今回の話は、前回の続きで、その研究手法についての話です。
科学は、現象に依拠した原理を立てることによって、合理的に説明すること
と話しましたが、今回は
「現象」とは何なのか、
「原理を立てる」とは何なのか、
「合理的に説明」とは何なのか、という話です。
ここでのキーワードは必要十分条件です。
◆準備
必要条件とは何だったのだのでしょうか。
必要条件とは、
任意の(ありとあらゆる)集合Aにおいて、
ある〔集合である〕事象(評価する対称)Bが存在して、
その事象Bが、集合Aを含む時、
事象Bに対して、集合Aが必要条件であるという。
十分条件とは何だったのでしょうか。
十分条件とは、
任意の(ありとあらゆる)集合Cにおいて、
ある〔集合である〕事象(評価する対称)Bが存在して、
(ここまでは同じ)
その集合Cが、事象Bを含む時、(逆になってることに注意)
事象Bに対して、集合Cが十分条件であるという。
簡単に言ったら、集合の元(要素)の数は
A<B<C
っています。(お分かりいただけたでしょうか…)
◆歴史的背景
近代科学が生まれたのは、間違いなくヨーロッパです。
そのヨーロッパにおいて、大きな派閥が存在しました。
イギリスとフランスにおいてのことです。
彼らは、帰納法と演繹法という二つの手法のどちらが、
科学をするうえで正しいのかという点で、争っていました。
帰納法とは、様々な情報や経験を元に
自然法則を見つけようという視点です。
演繹法とは、様々な仮説を元に、
自然法則を説明しようという視点です。
この争いは、実は両方を用いることが正しいという決着を得ました。
すなわち
帰納法とは実験であり観測あり、
演繹法とは理論であり仮説であります。
ここに近代科学の基礎ができたといっていいと思います。
◆科学の中の必要十分
この争いは、実は両方を用いることが正しいという決着を得ました。
すなわち
帰納法とは実験であり観測あり、
演繹法とは理論であり仮説であります。
と申し上げました。
では具体的な、研究過程とはどのようなものなのでしょうか。
帰納的な研究、つまり実験や観測によっては、正確に現象を捉えることができても
その背後にある、要素にまで迫れません。
演繹的な研究、つまり理論や仮説を立てることによっては、現象を説明することができても
机上の空論、つまり、実際にそうであるかという部分が欠けています。
ここで持ち出したいのは、
冒頭で述べた、必要と十分です。
実験や観測によって、現象に迫る手法は、
観測結果が、ある現象を「含んでいる」ことはわかっても、
その現象だけであるとはいえません。
例えば、時間と位置と温度を測定したとしても、
実際に、現象に関わるものがそのうち二つしかない(実際にはそれすらわからない)
情報過多になり、何が本質かを見極めなければなりません。
つまり、現象よりも大きな事象を観測したことになるのです。
これは必要十分における、
事象に対しての十分条件に他ならないといえます。
理論や仮定によって、現象に迫る手法は、
それらの仮説によって成立した事柄から、ある現象の「要素(らしきもの)を特定できた」といえても、全ての要素が捕らえれたわけではありません。
もしそうならば、この世の中の根源的な物理法則を見つけたことになります。
つまり、実際の現象よりも小さな事象を説明したことになるのです。
これは必要十分における、
事象に対しての必要条件に他ならないといえます。
簡単に言ったら、集合の元(要素)の数は
A<B<C
といいましたが、
研究において、
(理論)<(現象)<(実験)
であり、より現象に迫った理論や実験をすることによって
真理に迫ろうというのが科学的研究手法です。
◆科学と必要十分から何が言えるのか。
この研究手法は、もちろん科学的です。
つまり、原理原則を、現象に依拠することによって
覆す可能性があるのです。
しかし、実際には覆すという言い方は正しくないかもしれません。
前回も、特解であると言いましたが、
ある仮説が、ある事象を説明できたと言うことは
要素自体は含んでいたことになります。
したがって、それまで立てられた理論を、
もう一度、新たな要素を含む(またはより根源的な要素を仮定する)すとによって
理論を立て直す必要が生まれます。
これによって、それまでの視点が覆る可能性があるということなのです。
少し首尾一貫していませんが、
仮説から理論を導くので、
仮説が十分現象を捉えきれていなければ、
理論が間違っているということがあるということに、
注意してください。
科学は厳密に現象を捉えることは可能ですが、
理論から生まれた、科学的知識が、普遍性があるとは限りません。
むしろ、正確な議論ほど、
「~である可能性が高い」「~と考えられる」といった、
現象に対する謙虚さが必要になります。
「買ってはいけない」と断言することは言語道断ですし、
「買ってはいけないは買ってはいけない」と言うことも言語道断です。
そもそも、断言できるほどの知識など、人間は持ち合わせていません。
あくまで、可能性があると言うのが正確な議論になります。
この点を勘違いされている方が多いと感じています。
ご注意ください。
◆おまけ
ちなみに、こうやって議論をすること(論を述べること)は
一般に、必要条件を繰り返し用いています。
つまり、これが成り立てば、これが成り立たなければならないといっています。
皆さんが、あっそうだなと感じた時に、
つまり、経験と照らし合わせて、それに合致したときに、
必要十分に近づきます。
しかし、人間の現象を捉える感度は、
変化に対して敏感なのは確かめられているようですが、
それが、正確に現象を捉えることに繋がらない(基準がそのつど変わる)
ので、必要の部分がいくら正確であっても、
十分性を人間の感覚に頼るのは危険です。
ご注意ください。
(と言ってしまうと、この議論すら無意味意なるのですが…)
前回は「科学とは」という問いに対して「思考様式である」という結論を導いました。
詳しくは前回「科学とは」を参照を参照してください。
今回の話は、前回の続きで、その研究手法についての話です。
科学は、現象に依拠した原理を立てることによって、合理的に説明すること
と話しましたが、今回は
「現象」とは何なのか、
「原理を立てる」とは何なのか、
「合理的に説明」とは何なのか、という話です。
ここでのキーワードは必要十分条件です。
◆準備
必要条件とは何だったのだのでしょうか。
必要条件とは、
任意の(ありとあらゆる)集合Aにおいて、
ある〔集合である〕事象(評価する対称)Bが存在して、
その事象Bが、集合Aを含む時、
事象Bに対して、集合Aが必要条件であるという。
十分条件とは何だったのでしょうか。
十分条件とは、
任意の(ありとあらゆる)集合Cにおいて、
ある〔集合である〕事象(評価する対称)Bが存在して、
(ここまでは同じ)
その集合Cが、事象Bを含む時、(逆になってることに注意)
事象Bに対して、集合Cが十分条件であるという。
簡単に言ったら、集合の元(要素)の数は
A<B<C
っています。(お分かりいただけたでしょうか…)
◆歴史的背景
近代科学が生まれたのは、間違いなくヨーロッパです。
そのヨーロッパにおいて、大きな派閥が存在しました。
イギリスとフランスにおいてのことです。
彼らは、帰納法と演繹法という二つの手法のどちらが、
科学をするうえで正しいのかという点で、争っていました。
帰納法とは、様々な情報や経験を元に
自然法則を見つけようという視点です。
演繹法とは、様々な仮説を元に、
自然法則を説明しようという視点です。
この争いは、実は両方を用いることが正しいという決着を得ました。
すなわち
帰納法とは実験であり観測あり、
演繹法とは理論であり仮説であります。
ここに近代科学の基礎ができたといっていいと思います。
◆科学の中の必要十分
この争いは、実は両方を用いることが正しいという決着を得ました。
すなわち
帰納法とは実験であり観測あり、
演繹法とは理論であり仮説であります。
と申し上げました。
では具体的な、研究過程とはどのようなものなのでしょうか。
帰納的な研究、つまり実験や観測によっては、正確に現象を捉えることができても
その背後にある、要素にまで迫れません。
演繹的な研究、つまり理論や仮説を立てることによっては、現象を説明することができても
机上の空論、つまり、実際にそうであるかという部分が欠けています。
ここで持ち出したいのは、
冒頭で述べた、必要と十分です。
実験や観測によって、現象に迫る手法は、
観測結果が、ある現象を「含んでいる」ことはわかっても、
その現象だけであるとはいえません。
例えば、時間と位置と温度を測定したとしても、
実際に、現象に関わるものがそのうち二つしかない(実際にはそれすらわからない)
情報過多になり、何が本質かを見極めなければなりません。
つまり、現象よりも大きな事象を観測したことになるのです。
これは必要十分における、
事象に対しての十分条件に他ならないといえます。
理論や仮定によって、現象に迫る手法は、
それらの仮説によって成立した事柄から、ある現象の「要素(らしきもの)を特定できた」といえても、全ての要素が捕らえれたわけではありません。
もしそうならば、この世の中の根源的な物理法則を見つけたことになります。
つまり、実際の現象よりも小さな事象を説明したことになるのです。
これは必要十分における、
事象に対しての必要条件に他ならないといえます。
簡単に言ったら、集合の元(要素)の数は
A<B<C
といいましたが、
研究において、
(理論)<(現象)<(実験)
であり、より現象に迫った理論や実験をすることによって
真理に迫ろうというのが科学的研究手法です。
◆科学と必要十分から何が言えるのか。
この研究手法は、もちろん科学的です。
つまり、原理原則を、現象に依拠することによって
覆す可能性があるのです。
しかし、実際には覆すという言い方は正しくないかもしれません。
前回も、特解であると言いましたが、
ある仮説が、ある事象を説明できたと言うことは
要素自体は含んでいたことになります。
したがって、それまで立てられた理論を、
もう一度、新たな要素を含む(またはより根源的な要素を仮定する)すとによって
理論を立て直す必要が生まれます。
これによって、それまでの視点が覆る可能性があるということなのです。
少し首尾一貫していませんが、
仮説から理論を導くので、
仮説が十分現象を捉えきれていなければ、
理論が間違っているということがあるということに、
注意してください。
科学は厳密に現象を捉えることは可能ですが、
理論から生まれた、科学的知識が、普遍性があるとは限りません。
むしろ、正確な議論ほど、
「~である可能性が高い」「~と考えられる」といった、
現象に対する謙虚さが必要になります。
「買ってはいけない」と断言することは言語道断ですし、
「買ってはいけないは買ってはいけない」と言うことも言語道断です。
そもそも、断言できるほどの知識など、人間は持ち合わせていません。
あくまで、可能性があると言うのが正確な議論になります。
この点を勘違いされている方が多いと感じています。
ご注意ください。
◆おまけ
ちなみに、こうやって議論をすること(論を述べること)は
一般に、必要条件を繰り返し用いています。
つまり、これが成り立てば、これが成り立たなければならないといっています。
皆さんが、あっそうだなと感じた時に、
つまり、経験と照らし合わせて、それに合致したときに、
必要十分に近づきます。
しかし、人間の現象を捉える感度は、
変化に対して敏感なのは確かめられているようですが、
それが、正確に現象を捉えることに繋がらない(基準がそのつど変わる)
ので、必要の部分がいくら正確であっても、
十分性を人間の感覚に頼るのは危険です。
ご注意ください。
(と言ってしまうと、この議論すら無意味意なるのですが…)
2006/12/29
科学とは
◆はじめに
いろいろなところで述べてきましたが、
「科学」という言葉に対する一般的な認識は
あまりにも曖昧で、
かなり科学者の意識とかけ離れたものになっています。
今回のお話は、科学という言葉をどう認識したら良いか
という議論から始まって、最後に、十分合理的な
「科学」の新定義を提案します。
この定義を用いると、科学という言葉が、
歴史的に哲学から出発していながら、実は
哲学そのものを含んでいたという結果に至り、
また、科学という手法が、(文系理系関係なく)
ありとあらゆる分野において、十分意味のある研究手法であったことが、
また、如何に重要であることかがわかると思います。
今回の私の提案によって、少しでも合理性で
効率的である社会の実現を願っています。
◆科学批判
臨床心理学者で元文化庁長官の河合隼雄による
科学批判という文章を浪人中に読んだことがあります。
科学は人間性を抜きにした論理を組み立てたことによって
核兵器や環境破壊などが起きたという議論です。
僕は、このような議論には、科学への大きな誤解があると思います。
それは、科学と科学技術との違いです。
後述できっちりと定義いたしますが、科学と科学技術は
知恵を生み出すことと、知恵を使うことという根本的な違いがあります。
知恵を生み出すことによって、環境破壊も核兵器開発もできません。
あくまでその生み出された知恵を人間がどう使うかという議論に至るのです。
つまり、人間性を抜きに論理を組みたことによってという部分が完全に
間違った議論となります。
人間が使うから、つまり、人間性によってその知恵が悪用されているといわざるを得ません。
◆科学を定義する
では科学とはなんなのでしょうか。厳密に定義したいと思います。
科学は、自然科学だけのものなのでしょうか?いえ、違いますね。
社会科学、人文科学、発達科学 等、じつに多様な科学が存在します。
つまり、科学を定義する上で、これらを合理的に内包しなければなりません。
しかしながら、もし自然科学ではないとなると、我々がイメージしてきた科学は
実際には、崩壊してしまいます。
つまり科学的とはなんぞやという議論に至るのです。
科学は言うまでもなく、哲学から生まれた、合理的なものです。
ギリシア哲学において、全ての根源は何かという問いに答えることが
この科学という曖昧に扱ってきたものを捕まえる鍵になるかもしれません。
私は、この根源を求める問いへの答えとして、それは数であると答えた、
ピタゴラス学派と、その考え方を逆理(パラドックス)によって批判したエレア派に
科学の源流があると考えています。
当時の学派というのは、魂の浄化を願ったりと、
どちらかというと宗教色が強かったことはとどめておかなくてはなりません。
この二つの学派の論争は非常に重要なものをもたらしてくれたのではないかと考えています。
それが、ユーくリット学派によって生み出された(幾何)原論です。
重要なのは、この言論の中で、
公理(それ以上説明できないもの)
公準(議論に必要な基準)
定義(議論を展開する上で必要な要素)
を用いていることにあります。
さらに、その証明法において、背理法が使われていることも特筆すべきことなのです。
これは、例えば漢文の世界で、韓非子が矛盾という言葉を物語によって生み出したごとく
後の議論をしやすくしてくれた重要なエッセンスなのです。
幾何学は、実際にある図形を抽象化し、その図形同士の関係を
背理法によって合理的に説明しました。
まさにここに科学があると思います。
現実の現象に対して、結果が存在し(実験結果など)
その結果を、如何に合理的な要素を内包することによって
説明することができるのか
ということです。
つまるところ、科学はあくまで考え方という事を強調しておきます。
では科学を定義しましょう。
科学とは、
自然現象(人間を含む)に依拠した結果を基にして
その要素が何であるかを仮定することによって
理論を立て、検証してゆく作業。
じつはここで重要なことは、基準があくまで自然界にあるということです。
現象を正確に捉えることによって、その要素を検証するわけですから
常に、原理や法則は変更可能性があります。
言い換えるなら、それらは、あるとき成立する一つの特解というべきでしょう。
あるいは近似ともいうことができます。
このような合理的な現象作業は、所謂、理科学においてのみ成立するわけではありません。
現象に依拠していればまったくなんであってもかまわないのです。
ここに、種種の科学が存在する理由を説明できたことになるのです。
◆哲学と科学
哲学において、近年の問題は個々人から出発して
論理的に様々なものはどうであるかという検証がなされています。
無論科学に対してもです。
しかしながら、現象に依拠した科学は、実際
脳科学や、医学といった、人間自体もその対象となっています。
つまり、哲学において基礎、基準(公理や公準にあたるものかもしれません)となっている
モノすらも、科学はその対象としており、
したがって、個々人という科学の対象であるものの上からの議論である哲学は
実際問題、科学に含まれているということになります。
議論や理論において、どちらが歴史的に古いかなど
まったく持って意味を持ちません。
その点を誤解している方が多いのではないでしょうか。
◆科学の重要性
科学は、歴史的に見ると、これまで人間が獲得してきたなかで
最も正確かつ的確に現象を捉えています。
つまるところ、科学的に考えることが
正確さや的確さにおいて非常に意味のあることなのです。
したがって、科学という思考手法が検証法が
現段階で最も優れており、万人が身につけることによって
様々な問題を解決しうる手法であると、いうことができます。
皆様が、この思考法を身につけられ、
より良い社会が実現することを願っております。
いろいろなところで述べてきましたが、
「科学」という言葉に対する一般的な認識は
あまりにも曖昧で、
かなり科学者の意識とかけ離れたものになっています。
今回のお話は、科学という言葉をどう認識したら良いか
という議論から始まって、最後に、十分合理的な
「科学」の新定義を提案します。
この定義を用いると、科学という言葉が、
歴史的に哲学から出発していながら、実は
哲学そのものを含んでいたという結果に至り、
また、科学という手法が、(文系理系関係なく)
ありとあらゆる分野において、十分意味のある研究手法であったことが、
また、如何に重要であることかがわかると思います。
今回の私の提案によって、少しでも合理性で
効率的である社会の実現を願っています。
◆科学批判
臨床心理学者で元文化庁長官の河合隼雄による
科学批判という文章を浪人中に読んだことがあります。
科学は人間性を抜きにした論理を組み立てたことによって
核兵器や環境破壊などが起きたという議論です。
僕は、このような議論には、科学への大きな誤解があると思います。
それは、科学と科学技術との違いです。
後述できっちりと定義いたしますが、科学と科学技術は
知恵を生み出すことと、知恵を使うことという根本的な違いがあります。
知恵を生み出すことによって、環境破壊も核兵器開発もできません。
あくまでその生み出された知恵を人間がどう使うかという議論に至るのです。
つまり、人間性を抜きに論理を組みたことによってという部分が完全に
間違った議論となります。
人間が使うから、つまり、人間性によってその知恵が悪用されているといわざるを得ません。
◆科学を定義する
では科学とはなんなのでしょうか。厳密に定義したいと思います。
科学は、自然科学だけのものなのでしょうか?いえ、違いますね。
社会科学、人文科学、発達科学 等、じつに多様な科学が存在します。
つまり、科学を定義する上で、これらを合理的に内包しなければなりません。
しかしながら、もし自然科学ではないとなると、我々がイメージしてきた科学は
実際には、崩壊してしまいます。
つまり科学的とはなんぞやという議論に至るのです。
科学は言うまでもなく、哲学から生まれた、合理的なものです。
ギリシア哲学において、全ての根源は何かという問いに答えることが
この科学という曖昧に扱ってきたものを捕まえる鍵になるかもしれません。
私は、この根源を求める問いへの答えとして、それは数であると答えた、
ピタゴラス学派と、その考え方を逆理(パラドックス)によって批判したエレア派に
科学の源流があると考えています。
当時の学派というのは、魂の浄化を願ったりと、
どちらかというと宗教色が強かったことはとどめておかなくてはなりません。
この二つの学派の論争は非常に重要なものをもたらしてくれたのではないかと考えています。
それが、ユーくリット学派によって生み出された(幾何)原論です。
重要なのは、この言論の中で、
公理(それ以上説明できないもの)
公準(議論に必要な基準)
定義(議論を展開する上で必要な要素)
を用いていることにあります。
さらに、その証明法において、背理法が使われていることも特筆すべきことなのです。
これは、例えば漢文の世界で、韓非子が矛盾という言葉を物語によって生み出したごとく
後の議論をしやすくしてくれた重要なエッセンスなのです。
幾何学は、実際にある図形を抽象化し、その図形同士の関係を
背理法によって合理的に説明しました。
まさにここに科学があると思います。
現実の現象に対して、結果が存在し(実験結果など)
その結果を、如何に合理的な要素を内包することによって
説明することができるのか
ということです。
つまるところ、科学はあくまで考え方という事を強調しておきます。
では科学を定義しましょう。
科学とは、
自然現象(人間を含む)に依拠した結果を基にして
その要素が何であるかを仮定することによって
理論を立て、検証してゆく作業。
じつはここで重要なことは、基準があくまで自然界にあるということです。
現象を正確に捉えることによって、その要素を検証するわけですから
常に、原理や法則は変更可能性があります。
言い換えるなら、それらは、あるとき成立する一つの特解というべきでしょう。
あるいは近似ともいうことができます。
このような合理的な現象作業は、所謂、理科学においてのみ成立するわけではありません。
現象に依拠していればまったくなんであってもかまわないのです。
ここに、種種の科学が存在する理由を説明できたことになるのです。
◆哲学と科学
哲学において、近年の問題は個々人から出発して
論理的に様々なものはどうであるかという検証がなされています。
無論科学に対してもです。
しかしながら、現象に依拠した科学は、実際
脳科学や、医学といった、人間自体もその対象となっています。
つまり、哲学において基礎、基準(公理や公準にあたるものかもしれません)となっている
モノすらも、科学はその対象としており、
したがって、個々人という科学の対象であるものの上からの議論である哲学は
実際問題、科学に含まれているということになります。
議論や理論において、どちらが歴史的に古いかなど
まったく持って意味を持ちません。
その点を誤解している方が多いのではないでしょうか。
◆科学の重要性
科学は、歴史的に見ると、これまで人間が獲得してきたなかで
最も正確かつ的確に現象を捉えています。
つまるところ、科学的に考えることが
正確さや的確さにおいて非常に意味のあることなのです。
したがって、科学という思考手法が検証法が
現段階で最も優れており、万人が身につけることによって
様々な問題を解決しうる手法であると、いうことができます。
皆様が、この思考法を身につけられ、
より良い社会が実現することを願っております。
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