前回は、
①「ある現象」が観測された ならば
「ある原理」が想定される
その「逆」
②「ある原理」が仮定される ならば
「ある現象」は観測される
のどちらが科学的かという、所で終わりました。
では、理論物理を目指している人間らしく、
具体的に夫々を、解釈していきましょう。
①「ある現象」が観測された ならば
「ある原理」が想定される
はどう解釈すべきでしょうか。
こういう言い換えは可能ですね。
「ある現象」が存在する時、その現象に対応する、
「ある原理」が存在する。
これは、順番としては、
現象が確認されて、初めて原理が存在する。
という事がいえます。
歴史的な順番に極めて近いですね。
一方、この視点は現象が確認されない限り、
その原理は、存在し得ないという観点も持っています。
これは、
自然現象が、本来的にその性質を備えている
という、観点に立脚しておらず、
我々(人間)が、観測することによってその性質を現す
という危うさをはらんだ観点です。
必要十分という言葉に戻りましょう。
「ある現象」が観測された
は、この場合
「ある原理」が想定される
為の十分条件で
逆に、
「ある原理」が想定される
事は、
「ある現象」が観測された
為の必要条件です。
この、必要十分条件が一致した時、
厳密に、自然現象を捉えることが出来たと考えるならば、
「現象の観測」は、
「現象の原理」に対して、十分条件なわけですから、
「厳密に、自然現象を捉える」=「現象」(と定義すると)
「現象」より、「観測」は条件として、
含んでいるか等価
になります。 同様に
「現象」より、「原理」は条件として、
含まれているか等価
となるわけです。
包含の記号が無いので、不等号で代用しますと、
「原理」≦「現象」≦「観測」
となるわけです。
イメージとしては、
原理が現象の中に転がっていて、
観測においては、
現象を正確に捉えるのには少しゆるい条件で、
観測結果が得られる。
と、なるのです。
このイメージは、
演繹と帰納が、
原理と観測に対応する事を意味しており、
かなり、いい具体像を提供してくれます。
まとめますと、①の観点は
自然現象が、本来的にその性質を備えている
という、観点に立脚しておらず、
我々(人間)が、観測することによってその性質を現す
という危うさをはらんだ観点である一方
演繹と帰納が、
原理と観測に対応する事を意味しており、
かなり、いい具体像を提供してくれる。
という、メリットとデメリットが同時に成立しているわけです。
僕が定義していた、必要性、十分性は、
二つ目のメリットから来ています。
しかし、デメリットがあるわけです。
これによって、逆である②を考えなくてはなりません。
話が長くなってしまうので、
これまた次回にいたしましょう。