2007/01/03

科学と研究

◆はじめに
前回は「科学とは」という問いに対して「思考様式である」という結論を導いました。
詳しくは前回「科学とは」を参照を参照してください。

今回の話は、前回の続きで、その研究手法についての話です。
科学は、現象に依拠した原理を立てることによって、合理的に説明すること
と話しましたが、今回は

「現象」とは何なのか、
「原理を立てる」とは何なのか、
「合理的に説明」とは何なのか、という話です。

ここでのキーワードは必要十分条件です。

◆準備
必要条件とは何だったのだのでしょうか。
必要条件とは、
任意の(ありとあらゆる)集合Aにおいて、
ある〔集合である〕事象(評価する対称)Bが存在して、
その事象Bが、集合Aを含む時、
事象Bに対して、集合Aが必要条件であるという。

十分条件とは何だったのでしょうか。
十分条件とは、
任意の(ありとあらゆる)集合Cにおいて、
ある〔集合である〕事象(評価する対称)Bが存在して、
(ここまでは同じ)
その集合Cが、事象Bを含む時、(逆になってることに注意)
事象Bに対して、集合Cが十分条件であるという。

簡単に言ったら、集合の元(要素)の数は
A<B<C
っています。(お分かりいただけたでしょうか…)

◆歴史的背景
近代科学が生まれたのは、間違いなくヨーロッパです。
そのヨーロッパにおいて、大きな派閥が存在しました。
イギリスとフランスにおいてのことです。
彼らは、帰納法と演繹法という二つの手法のどちらが、
科学をするうえで正しいのかという点で、争っていました。

帰納法とは、様々な情報や経験を元に
自然法則を見つけようという視点です。

演繹法とは、様々な仮説を元に、
自然法則を説明しようという視点です。

この争いは、実は両方を用いることが正しいという決着を得ました。
すなわち
帰納法とは実験であり観測あり、
演繹法とは理論であり仮説であります。

ここに近代科学の基礎ができたといっていいと思います。

◆科学の中の必要十分

この争いは、実は両方を用いることが正しいという決着を得ました。
すなわち
帰納法とは実験であり観測あり、
演繹法とは理論であり仮説であります。

と申し上げました。
では具体的な、研究過程とはどのようなものなのでしょうか。

帰納的な研究、つまり実験や観測によっては、正確に現象を捉えることができても
その背後にある、要素にまで迫れません。

演繹的な研究、つまり理論や仮説を立てることによっては、現象を説明することができても
机上の空論、つまり、実際にそうであるかという部分が欠けています。

ここで持ち出したいのは、
冒頭で述べた、必要と十分です。

実験や観測によって、現象に迫る手法は、
観測結果が、ある現象を「含んでいる」ことはわかっても、
その現象だけであるとはいえません。

例えば、時間と位置と温度を測定したとしても、
実際に、現象に関わるものがそのうち二つしかない(実際にはそれすらわからない)
情報過多になり、何が本質かを見極めなければなりません。

つまり、現象よりも大きな事象を観測したことになるのです。
これは必要十分における、
事象に対しての十分条件に他ならないといえます。

理論や仮定によって、現象に迫る手法は、
それらの仮説によって成立した事柄から、ある現象の「要素(らしきもの)を特定できた」といえても、全ての要素が捕らえれたわけではありません。

もしそうならば、この世の中の根源的な物理法則を見つけたことになります。

つまり、実際の現象よりも小さな事象を説明したことになるのです。
これは必要十分における、
事象に対しての必要条件に他ならないといえます。

簡単に言ったら、集合の元(要素)の数は
A<B<C

といいましたが、
研究において、
(理論)<(現象)<(実験)

であり、より現象に迫った理論や実験をすることによって
真理に迫ろうというのが科学的研究手法です。

◆科学と必要十分から何が言えるのか。

この研究手法は、もちろん科学的です。
つまり、原理原則を、現象に依拠することによって
覆す可能性があるのです。

しかし、実際には覆すという言い方は正しくないかもしれません。
前回も、特解であると言いましたが、

ある仮説が、ある事象を説明できたと言うことは
要素自体は含んでいたことになります。

したがって、それまで立てられた理論を、
もう一度、新たな要素を含む(またはより根源的な要素を仮定する)すとによって
理論を立て直す必要が生まれます。
これによって、それまでの視点が覆る可能性があるということなのです。

少し首尾一貫していませんが、
仮説から理論を導くので、
仮説が十分現象を捉えきれていなければ、
理論が間違っているということがあるということに、
注意してください。

科学は厳密に現象を捉えることは可能ですが、
理論から生まれた、科学的知識が、普遍性があるとは限りません。
むしろ、正確な議論ほど、
「~である可能性が高い」「~と考えられる」といった、
現象に対する謙虚さが必要になります。

「買ってはいけない」と断言することは言語道断ですし、
「買ってはいけないは買ってはいけない」と言うことも言語道断です。
そもそも、断言できるほどの知識など、人間は持ち合わせていません。
あくまで、可能性があると言うのが正確な議論になります。

この点を勘違いされている方が多いと感じています。
ご注意ください。

◆おまけ

ちなみに、こうやって議論をすること(論を述べること)は
一般に、必要条件を繰り返し用いています。

つまり、これが成り立てば、これが成り立たなければならないといっています。

皆さんが、あっそうだなと感じた時に、
つまり、経験と照らし合わせて、それに合致したときに、
必要十分に近づきます。

しかし、人間の現象を捉える感度は、
変化に対して敏感なのは確かめられているようですが、
それが、正確に現象を捉えることに繋がらない(基準がそのつど変わる)
ので、必要の部分がいくら正確であっても、
十分性を人間の感覚に頼るのは危険です。
ご注意ください。

(と言ってしまうと、この議論すら無意味意なるのですが…)

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