長い間、心配を掛けるような日記を書いといて、ほったらかしにしてごめんなさい。
父は、3月1日午後8時55分 永眠いたしました。
ちょうど、ブログを書いた晩の2時に(完全に寝てました)電話がかかってきて、
(最高)血圧が60になって、危険な状態だから来てくださいというものでした。
母方の祖父祖母が来ていたので、二人も一緒に病院へ。
タクシーで、夜の阪神高速を駆け抜けて、20分ほどで病院に着きました。
夜を徹して、母、兄、祖母、祖父、そして僕が見守り続けました。
全身に熱を帯びた状態で、次第に四肢(両手両足)の体温が下がってきました。
体は、依然熱を帯びています。
心拍数は正常で、血圧は殆どはかれない状態になっていました。
朝になって、次第に全員の疲れが出始め、夫々が軽く仮眠をするような状況になりました。
昼には、母の兄 夫婦が応援に駆けつけ、祖父と祖母は帰宅、
僕らは仮眠を取るようになりました。
夕方になり、母の兄の奥さんのお母さん(ややこしい。。。)が、
60代前半でなくなったときには、あと2,3日といわれて、一月持ったという話が出て、
2,3時間仮眠を取った僕らは、一次帰宅。
母の兄夫婦に任せて、一度帰宅、
(まともな)ご飯を食べて、僕と母が病院に向う途中でした。
母の兄夫婦から電話が入り、
呼吸の間隔が伸びてきている。危険な状態だ
と連絡が入りました。
母は、もう間に合わないと思い、がっくりとしていましたが、
病院に着いた時には、まだ心電図の音が聞こえていました。
母の兄の奥さんは、僕らの姿を見た瞬間に、
半分気を失いそうになりながら、よかったー
と声をあげました。
呼吸はしているのかしていないのかわからない状態で、
それまでしていたように、肩は動きませんでした。
兄は電話をもらってから、すぐに連絡をしたので、
10分から15分遅れてくるはずです。
脈はかなり不整脈になっていて、止まったと思えば動き出します。
僕は、父の顔のそばで見守っていました。
母の兄夫婦から、母に連絡して5分も絶たないうちに、
急に状態が悪くなったことを、しきりに訴えて、どうなるかと思ったと
僕らに話していました。
母は、あと少しで兄が来るから、それまでがんばってと、
半分あきらめも混じりながら、肉の塊となりつつある父をさすりながら訴えています。
母の兄夫婦がしゃべっている時でした。
何度か目の心停止が来ました。
まだ、持つだろうと次の音を期待していた中、
聞こえたのは、さすった衝撃で鳴った、音だけでした。
主治医の先生がやってきて、心臓の音を確認。
先生も、処置が後手に廻ったことを悔しそうにしながら、
良くがんばりはったと、いい、父の死を確認いたしました。
父についている管を抜き取るため、
僕ら家族は別室に移動。
兄の到着を待ちました。
死んですぐに兄に電話した時、
兄は、病院がある駅を降りた所でした。
管を抜いた後、伸びた髭を剃り、
服を換え、力が入らなくなった為、下がった顎を固定し、
まぶたを閉じて、霊柩車を待ちました。
冷たくなった父の体は、
そのしっかりとした骨に、肉がへばりついているだけの、
冷たいものでした。
死因は癌性腹膜炎
原因は胆管癌
父の60年と半年の人生が終わりました。
ご存知の通り、死後直前から葬式が終わるまでというのは、
全力疾走するようなものです。
病院から運ばれた遺骸をおって、葬儀場へ
葬式の日程から、内容、飾る花、何人ぐらい呼ぶか、
誰が番をするのか、
などなど、一気に押し寄せてきます。
この日は、とりあえず、
朝からの睡眠不足がピークに達していたので、
晩はせず、家に帰ることにしました。
病院にあった荷物は、整理している余裕などありません。
次の日、葬儀場に出向いて晩をし、、
親戚に連絡を取り、焼香順から、止め焼香を誰にするか、
父の入棺など、この日も走り回りました。
次の日は通夜で、父方の親戚は、近くの方以外は来ないことがわかったので、
付き合いのある、母方の親戚のため、世話も殆どなく、晩に通夜があるため、
僕は、成績発表と、卒研決定があるので学校へ向いました。
今週一週間は、父が意識を失っていて、何ぞ何ぞと、病院に呼び出されたため、
毎日のように病院で、飯を食い、晩に家に帰る生活をしていました。
その為、学校に出向いた日は、疲れも溜まっていて、
だいぶ眠かったことを覚えています。
みんな、ブログ見て、心配してくれてありがとう。
と、言いつつ、時間を気にせず、数学科の友達と話し込んでしまい、
通夜1時間前に到着。
ちょっと危なかった。
通夜が終わり、晩御飯は葬儀場で。
この時からぺちゃくちゃぺちゃくちゃと、他愛ない会話が、
おっちゃんやおばちゃん、じいちゃん、ばあちゃんと続き、
時々、思い出したように、葬式が入ってきました。
父が危篤だという電話を受ける前まで、
祖父と近くにできた温泉に行こうという話しをしていたので、
僕ら家族や、祖父祖母、叔父叔母(叔は年少の意味)、伯父伯母(伯は年長の意味)、
の疲れがピークに達していたこともあり、明日葬式の後に、
風呂に行くことになりました。
葬式の後に、九州から来た、父のいとこから、
父が、僕ら家族に対してしていたように、頑固で、気使いであったこと
自分の思いどうりにならないと、怒り出すことなど、を聞き、
昔から、変わらなかったんだなと感心していました。
父は、独善的な面があるため、友人が少なく、
かといって、マメであった為、僕らの知らないうちで、
色々と、やっていたので、残った僕らは、一つ一つ
ブラックボックスを開ける破目に会うことになりました。
母は、友人だけど、連絡を取ったり付き合いがあったりしなかったからと、
入院中に連絡取らなかった、父の友人から、
入院した時に何故言ってくれなかったのかと、迫られたと、
今日言っていました。
昨日からは、父のものを整理し始めましたが、
何せ、デジタル機器から本まで、色々とあって、
どこから手をつけ始めたらいいのかと迷うばかりです。
今日は電子手帳を整理したのですが、
整理が終わって、ふと父の机の引き出しを開けると、
また一つ出てきます。
これで4っつ目。
わけがわかりません。
iPod二つに、デジカメ二つ、PSPにニンテンドーDS。
USBメモリーや、各種メモリーカードが、計15~20ほど見つかりました。
そして、それらとパソコンをつなぐケーブル類。
まだCD-Rが残っています。
頭が痛くなりそうです。
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