2007/08/31

勘違いか、それとも本質的か③

前回は

①「ある現象」が観測された ならば
 「ある原理」が想定される

について、解釈した結果、次の様なことを得ることが出来ました。

/////////////////////////////////////////////////////////////
①は

自然現象が、本来的にその性質を備えている

という、観点に立脚しておらず、
我々(人間)が、観測することによってその性質を現す
という危うさをはらんだ観点である一方

演繹と帰納が、
原理と観測に対応する事を意味しており、

かなり、いい具体像を提供してくれる。

という、メリットとデメリットが同時に成立している。
/////////////////////////////////////////////////////////////

では、今回は①の「逆」

②「ある原理」が仮定される ならば
 「ある現象」は観測される

を、解釈してみます。

前回同様こういう言い換えは可能ですね。

「ある原理」が存在する時、その現象に対応する、
「ある現象」が存在する。

これは、順番としては、

原理が存在して、初めて現象が確認される。

ということが言えます。

自然界の構造は、はじめから原理が存在するわけですから、
自然界に極めて近いですね。


必要十分という言葉に戻りましょう。

「ある原理」が想定される は、この場合

「ある現象」が観測される 為の十分条件で

逆に、

「ある現象」が観測された 事は、

「ある原理」が想定される 為の必要条件です。

前回同様に不等号で包含関係を表すと


「原理」⊇「現象」⊇「観測」

となります。

やはりこちら側は、自然界の構造を現していますね。


結論として述べるならば、
前回の

①「ある現象」が観測された ならば
 「ある原理」が想定される

は、自然現象を理解、解釈してゆく課程を

②「ある原理」が仮定される ならば
 「ある現象」は観測される

は、自然界そのものの構造を表している
ということができるでしょう。

したがって、科学という方法論で用いるべきは、
①であって、その結果
②という結果を得るというべきでしょう。

0 件のコメント:

コメントを投稿