2006/12/29

科学とは

◆はじめに
いろいろなところで述べてきましたが、
「科学」という言葉に対する一般的な認識は
あまりにも曖昧で、
かなり科学者の意識とかけ離れたものになっています。

今回のお話は、科学という言葉をどう認識したら良いか
という議論から始まって、最後に、十分合理的な
「科学」の新定義を提案します。

この定義を用いると、科学という言葉が、
歴史的に哲学から出発していながら、実は
哲学そのものを含んでいたという結果に至り、

また、科学という手法が、(文系理系関係なく)
ありとあらゆる分野において、十分意味のある研究手法であったことが、
また、如何に重要であることかがわかると思います。

今回の私の提案によって、少しでも合理性で
効率的である社会の実現を願っています。

◆科学批判
臨床心理学者で元文化庁長官の河合隼雄による
科学批判という文章を浪人中に読んだことがあります。
科学は人間性を抜きにした論理を組み立てたことによって
核兵器や環境破壊などが起きたという議論です。
僕は、このような議論には、科学への大きな誤解があると思います。
それは、科学と科学技術との違いです。
後述できっちりと定義いたしますが、科学と科学技術は
知恵を生み出すことと、知恵を使うことという根本的な違いがあります。
知恵を生み出すことによって、環境破壊も核兵器開発もできません。
あくまでその生み出された知恵を人間がどう使うかという議論に至るのです。
つまり、人間性を抜きに論理を組みたことによってという部分が完全に
間違った議論となります。
人間が使うから、つまり、人間性によってその知恵が悪用されているといわざるを得ません。

◆科学を定義する
では科学とはなんなのでしょうか。厳密に定義したいと思います。

科学は、自然科学だけのものなのでしょうか?いえ、違いますね。
社会科学、人文科学、発達科学 等、じつに多様な科学が存在します。
つまり、科学を定義する上で、これらを合理的に内包しなければなりません。

しかしながら、もし自然科学ではないとなると、我々がイメージしてきた科学は
実際には、崩壊してしまいます。
つまり科学的とはなんぞやという議論に至るのです。

科学は言うまでもなく、哲学から生まれた、合理的なものです。
ギリシア哲学において、全ての根源は何かという問いに答えることが
この科学という曖昧に扱ってきたものを捕まえる鍵になるかもしれません。
私は、この根源を求める問いへの答えとして、それは数であると答えた、
ピタゴラス学派と、その考え方を逆理(パラドックス)によって批判したエレア派に
科学の源流があると考えています。
当時の学派というのは、魂の浄化を願ったりと、
どちらかというと宗教色が強かったことはとどめておかなくてはなりません。
この二つの学派の論争は非常に重要なものをもたらしてくれたのではないかと考えています。
それが、ユーくリット学派によって生み出された(幾何)原論です。
重要なのは、この言論の中で、
公理(それ以上説明できないもの)
公準(議論に必要な基準)
定義(議論を展開する上で必要な要素)
を用いていることにあります。
さらに、その証明法において、背理法が使われていることも特筆すべきことなのです。
これは、例えば漢文の世界で、韓非子が矛盾という言葉を物語によって生み出したごとく
後の議論をしやすくしてくれた重要なエッセンスなのです。

幾何学は、実際にある図形を抽象化し、その図形同士の関係を
背理法によって合理的に説明しました。

まさにここに科学があると思います。

現実の現象に対して、結果が存在し(実験結果など)
その結果を、如何に合理的な要素を内包することによって
説明することができるのか

ということです。

つまるところ、科学はあくまで考え方という事を強調しておきます。

では科学を定義しましょう。

科学とは、
自然現象(人間を含む)に依拠した結果を基にして
その要素が何であるかを仮定することによって
理論を立て、検証してゆく作業。

じつはここで重要なことは、基準があくまで自然界にあるということです。
現象を正確に捉えることによって、その要素を検証するわけですから
常に、原理や法則は変更可能性があります。
言い換えるなら、それらは、あるとき成立する一つの特解というべきでしょう。
あるいは近似ともいうことができます。

このような合理的な現象作業は、所謂、理科学においてのみ成立するわけではありません。
現象に依拠していればまったくなんであってもかまわないのです。
ここに、種種の科学が存在する理由を説明できたことになるのです。

◆哲学と科学
哲学において、近年の問題は個々人から出発して
論理的に様々なものはどうであるかという検証がなされています。
無論科学に対してもです。
しかしながら、現象に依拠した科学は、実際
脳科学や、医学といった、人間自体もその対象となっています。
つまり、哲学において基礎、基準(公理や公準にあたるものかもしれません)となっている
モノすらも、科学はその対象としており、
したがって、個々人という科学の対象であるものの上からの議論である哲学は
実際問題、科学に含まれているということになります。

議論や理論において、どちらが歴史的に古いかなど
まったく持って意味を持ちません。
その点を誤解している方が多いのではないでしょうか。

◆科学の重要性
科学は、歴史的に見ると、これまで人間が獲得してきたなかで
最も正確かつ的確に現象を捉えています。
つまるところ、科学的に考えることが
正確さや的確さにおいて非常に意味のあることなのです。
したがって、科学という思考手法が検証法が
現段階で最も優れており、万人が身につけることによって
様々な問題を解決しうる手法であると、いうことができます。

皆様が、この思考法を身につけられ、
より良い社会が実現することを願っております。

2006/09/04

9/4

今日はメガスターを見に行ってまいりました。
メガスターとはご存知の方もいると思いますが、Nessreがやってるコマーシャルで唐沢敏明と誰かさん(大平さん)が出ているCMをご存知と思います。
実は、あのコマーシャルのプラネタリウム、ギネスを取っているんですね。どんなギネスかと言いますと、なんとその星の数。
作られた太平山は、小学校のころからプラネタリウム製作をし始めて、大学時代には自作のプラネタリウムを学園祭で披露。卒業後どうも、就労しながらメガスター1を作っていたようです。
転機は、国際天文学会に友人の紹介で出席した時。論文の発表等を済ませた後、実演をして魅せるのですが、両手で持てる大きさのプラネタリウムを使って、なんと140万個もの星を、エアドームに投影させたのです。会場からは拍手喝采。なんせ、当時(現在でも)、販売されていた大手メーカー製のものであっても、その星の数は3,000~30,000それを一気に1,400,000まで増やしたのですから、びっくりするのも当然です。

現在、このメガスターは改良を重ねられて、メガスター2として4,100,000個の星を天球に投影しています。このメガスター2は1と同様、持ち運びできる大きさのもの。僕も実物を見た時は、え?これでと思ってしまいました。メガスター2は3台現在のところあり、東京の日本科学未来館(毛利衛 館長)と川崎少年科学館、あと巡回ようのものです。ギネスはちなみに科学未来館。館と共同開発で5,000,000個の星星が輝いています。

こんなものを個人で作ってしまうんですから、感服する以外にいいようがありません。

僕が行った時、ヒルトンプラザ イーストの一回には、大きな白いエアドームと整理券受け渡し窓口がありました。エアドームの大きさは、大体高さ2,3mほど。幅はその二倍ですから5,6メートルといった具合です。一回の定員が30人。少ないですが、巡回できるのだから仕方ありません。

待ち合わせる人と連絡を取ると、外にいるとのこと。先に着いたのに何で並んでないのと思っていると、なんと外には凄い列。まえの組が終わったのにもかかわらず、そこにはすでに30人以上の人が並んでいました。初日で、宣伝をあまりしていない(僕は朝日新聞の小さな広告で見つけた)のにもかかわらずなんというという感じだったのです。

中で映し出されたのは満天の星空。そう思い込んで、見ていたのですが、大阪から南国の島、北国へと移り変わるにつれて目が闇になじんできて、天の川の星が輝き出しました。


まさに天に抱かれる心地とはこのことでしょう。
天の川の表情と、巡ってゆく星々の姿に、ただただ感激するばかりでした。

昔は、どんな所でもこんなものが見えていたんですね。
そう考えると、人は、ものすごく大切なものを(精神的に)失っている気がします。

は~良かった~


もっかいいこっと!

2006/08/30

8月30日宣言!

◆自身への戒め

不安定な家庭と、不安定な学校での人間関係、青年期特有の不安定な心理状態が重なり、そこから逃避することで心の安定を求めた。それが、周りが大きくとらえたことで、より不安定になり、逃げ道を失ったというべきであろう。つまり不登校時代、私のやりたいこと、やったこと、当時の状況そのものが、周囲を苦しめる状況であったのだ。それは同時に私自身を蝕んだことは言うまでもない。

その気持ちへの整理が、自らの否定であった。自己存在の自己否定以外に、当時の自分を認める手法が見当たらなかったというべきかも知れない。この整理は、一年後の高校時代になされた。不眠症になり、苦しみの中から生み出した答えであった。

この自己否定は徹底された。それこそ一挙止一頭足、発した言葉の些細に至るまで、毎晩の反省が行われた。

その中での反省として、このような自らの行動の些細に囚われるような意識自身が、僕の行動を硬化させ、それが周囲の人間を困惑させていた。周囲から嫌われることは一切問題はないのだが、相手にいやな思いをさせる行為は、許されない。その意識から行動を軟化させるようになった。

浪人時代、しかしそのように自己否定と周囲尊重の姿勢は貫けなくなった。受験戦争という行為そのものがエゴイスティックなものであり、そこに参加するとはエゴイスティックになるということを意味していた。

期限付きの自尊心は、非常にもろいものであったのだが、高校時代に生み出した大きな自己革新と同様に、この自尊心が私の意識を変えていった。完全に目的からそれて、私を楽なほうへと導くかのように。

私を以前の見識から変えていったのはこの自尊心のみではない。他人への態度の軟化もまた緊張感をコミュニケーションから抜いていった可能性がある。

この問題は非常に重大で、現在の私の中途半端さを生み出している可能性がある。かつてに戻るのは問題があって変わったのだから良くない。しかし、現在の状態から何らかの方向へ自己変革しなければならないのは事実であろう。

コミュニケーション技術の稚拙さが大きな問題としてある。相手の意見を引き出す方法が、こちらの強い主張を提起することぐらいしかないことには前々から問題を感じている。またそれが、相手から自分の主張を出す機械を奪っている可能性すらある。抜本的な見直しが必要であるが、良い手法が見当たっていないのが現状だ。コミュニケーションにおいて満足感がわずかでもあればいいという考え方がもしかすればよい解答かもしれない。



ここに、僕の誕生日である 8月30日付けの宣言文を、日英両文で掲載いたします。
内容は、僕の関心や立場、考えをまとめたものです。
長文になる予定です。

尚、掲載、訂正期間は
本日2006年8月30~2007年8月30日 です。

ぜひご意見をお寄せください。
お待ちしております。

2006/08/23

おととい日記

おとといは、梅田にお買い物。なんとWebCamを買いに行ってまいりました。

買ってきたのはLogicoolのノートブックタイプ、低採光型30万画素。

どうも、この辺りが一番一般向けな型なようなきがする。
不思議なことに全てのWebCamにマイクが内蔵されてて、もっと言えばマイク内臓の上にヘッドセット(マイクとイアホンが一緒になったもの)がついてくるタイプも。

見回したところBaffaloとLogicoolが競っていて、そこにCanonがついてきている形。

底値ラインが2000円台で10万画素マイクつき。
Baffaloが3000円台から始まり、全てにヘッドセットがついている。
Logicoolは4000円台から始まる。
Logicoolは独自の画像処理技術がどうので、4000円台から始まる30万画素のBaffaloとの勝負に差をつけた感じ。
Baffaloは35万画素で見かけ上の値打ち感を演出(店頭ででているものを見ると、なぜか30万画素のLogicoolのほうがきれいに見える)加えてヘッドセットというわけだ。

高いものを見ると大体が130万画素で1万円台。ここにCanonが入ってきて混戦模様。
こうなるとどれでも一緒じゃないかと思ってしまう。
(画像が十分きれいなので、デジカメのように色彩などで競う形になっている。けどWebCamにそこまで求めるのか。。)

松下がユビキタスをうたって、2万円台の家庭内モニターを売っていたが、冷静に見るとどう考えても割高。リモートでピントが調節のできる
タイプをUSBケーブルを延ばして設置すれば十分な気がする。
1万円はソフト代とでもいいたいのか。。。
素人騙しのような気もする。

この日は茶屋町に向かって、英語の教科書とCDを買って帰りました。
しかし、久しぶりの梅田。休むところがないことにこのごろ気がついた。
休めるところが、混雑した喫茶店とはいかがなものか。
早期の梅田北ヤードの建設を切望する。

2006/08/21

8/20の日記

今日は少し勉強したりしてだらだらとすごしてました。

夜には家庭教師のバイトへ。

着くとなんとお父さんと遭遇。久しぶりに会いました。
中へ入れてもらうと、先週京都市立青少年科学センターに連れて行ってもらったお礼として
和菓子と謝礼金が。。

そんなのいいのにといいつつも、その場に生徒しかおらず少し当惑。

来週も行く話しになっているのにまた同じ様に色々とくれるんだろうか。

科学館は僕は実は小学生から高校にかけてとても大好きな場所で何度も行きました。

思えば自分が物理を学んでゆく切っ掛けになっていたのかもしれないし、
また、自然と科学の知識を身につけにいっていたのかもしれません。

行った時にに、家庭教師先の兄弟が生まれたばかりのひよこを手の上に乗せてもらっていました。
(僕はやったことがないのでうらやましい!!)

声を出したり、顕微鏡でいろんなものをのぞいたり、自然の世界っていうのがこんなに宝物がいっぱい詰まってるんだよっていうのが少しでも伝わればと思います。

というよりも僕が科学の世界に従事しているんだから、それぐらいしか、うまく伝えてあげれないというのがあるのですが。。。

ですから、お金がどうのという気持ちで行ってないので、とても複雑な思いでした。

話は家庭教師に戻って、

いつものように教えてゆくと、少しずつ能力が身について行っている彼の姿に関心。

二桁の計算をさせてみると、できるようになっていて関心。とても嬉しいです。

来週は大阪市立科学館。京都よりもプラネタリウムの規模が大きいとあって、
彼の弟も少し興奮気味でした。

こうやって科学少年が生まれてゆくんだなと思わされてしまいます。
逆に言うと昔自分がそうだったんですがねw

2006/08/20

昨日の日記w

今日は昨日見た棚を買ってくるために、また少し整理してました。いやはやなかなか終わらない。いつになったら勉強できるやら。。

お昼前に片付けはひと段落。というよりも、棚を置いてしまわないと片付かないことに気がつくw

早速自転車で買出し。色々見てると迷うね~。大体安くても3000円以上はする。財布と相談すると余り高いのは買えないし。。。と思っていると特売を発見!日本人はニーキュッパに弱い!2980。これに決めて早速家に。。。と思ったけど以外に大きい。片手で持てるのかな。。大きさは畳の1/4ぐらい。結構大きいし重い。自転車のかごに入るサイズじゃないし。。と思いながらがんばって片手で担いで帰りました。

昼ごはんまえに半分を組み立て、そうめん食べてからもう半分を。適当に組み立てたから本をは
めて見ると、なんとA4が入らない!!

仕方ないので棚をずらしてみた。下には辞書が入ればいいやと二つをあわせながら調整。

完成して次々と本を掘り込んでいくと余ったスペースが大量に出てきた。文房具系も整理しだすと、どうも引き出しに入れるべきものが定まらない。困った。勉強道具を入れておきたいんだけど、イマイチいいサイズのものがなくて。。。

今日はこのあたりで放棄。

夜には探検ロマン世界遺産を見た。

始皇帝廟と兵馬俑の特集。やっぱり型があったのかと兵馬俑に関して納得。職人達にも能力製を取っていたのだとか。秦は孔子の弟子筋にあたる筍子の弟子達が作っていった法治主義を実践した国。李斯が国を負われてでた時に、関で見つかって、悪法もまた法なりといって甘んじて刑を受けたことも有名。こういった法治国家の制度が、後の中国を形作ってゆくと思うと少し胸が熱くなる。

始皇帝の墓の近くに、水銀の池があるとは効いていたが、その形が中国大陸に似せてあったとは初耳。いまだに発掘がおわっていない兵馬俑。中国のお金のなさがあるきもするが、これだけの大規模な遺跡を発掘する大変さは大いにあるだろう。全て見つかれば、エジプトのピラミッドと雄を争うかもしれないな。

おとといの日記w

昨日は相も変わらず、部屋の整理をしていたのですが、はたと思いついて棚を見にHOMESへ行ってきました。 棚といっても金属のものから木製のもの、そしてプラスチックと色々とあるものだなと思い、ぶらぶらとしてました。

夜になってごろごろしていると、母親がいつもより早く帰ってきて、早めの食事になりました。
不思議に思っていたら、どうも今日が地元の祭りだということに気がつき、またなぜか父親と祭りに行く破目になりました。(おやつ券を引き換えにいくためにいったんだけど。。。)

びっくりしたのは、異様に人が沢山いた事。例年よりなぜか沢山人が集まっていたのが本当に不思議だった。近くにマンションが沢山出来たからかな。。。

帰り道、人が多いなと父親と話していたら、元市の職員だった父親は、○×祭りにも沢山来てる。子どもの集まる場所がないんやといっていました。

確かにその通りだなと思います。ヨーロッパなんかだと、古い時代から駅があるから、駅の周りにちょっとした広場があって、街の人が思い思いに過ごしてる。別に駅でなくても公園でもそう。日本の公園は子供向けなイメージが強すぎる。もっと木を植えて安らげる場所にしてほしい。もちろん道についても。どうも、車と自転車が道路のつくりを決めていて、落ち着いて歩けない気もする。

なんだか、全てが効率優先で、駅の近くなんかもう少し広場を設ければいいのに、どうも商業中心に駅前を作っている気がする。駅に降りて、広場で一呼吸おいてからお店に行くほうが、商品を冷静に買えると思うけど(それがいい社会を作るんだと思うんだけど)。本当にごみごみしてるな~。