2007/03/28

解かりません。(問題1が間違っていたので訂正)

最近、ランダウさんと、リフィッツさんの書いた、力学をやっているのですが、
どうしても解からない数学上(解析上)の問題があって、苦しんでいます。

物理的な背景は飛ばして、とりあえず、下の方程式を
Uが色々な場合に解きましょうという話です。

条件があって、Eやmはもちろん定数で、

という積分範囲に絞っています。

言いたいのは、下に凸、極値を一つ持った関数U(x)を、U≦Eの範囲で積分しましょうということです。

まずは、詳しい解説があったから解けた例題から

問題0



積分は、β関数で表現できて、γ関数を用いて表現しなおしたのが、下の解です。


上記の問題のように、β関数を使えば解けるのかなと思ったのですが、解けなかったのが下の2題です。

問題1



この問題は、β関数を用いた解法をすると、必ずtanhαxがあまってしまいます。

問題2



こちらにいたっては、近づいてもくれません。


もう一問。本では、「積分は初等的に行われ」と書かれています。


説いた方は、何らかの形で、僕に教えてください。
お願いします。

2007/03/18

東京に行ってきた

大学院選びの一環として、
東京大学の総合文化学部(元教養学部)広域科学専攻の熱統計理論の福島先生と、
筑波大学の第一類、物理の有光先生にお話を聞いてきました。

福島先生とは、午前10:30に待ち合わせをしていて、
家から、東大の駒場まで、軽く4時間はかかるので、
朝5時起き、6時の電車に乗りました。

京阪から、京都駅に行くルートは、二つで、
一つは近鉄を使った乗り換え。
もう一つは、東福寺でのJR奈良線への乗り換え。

新幹線に乗る場合、JR線は、タダになるので、
当然、東福寺経由で乗り換え。

そうすると、見事に伏見稲荷で乗り換えずに下車。
あの時は、駅の地図に、JR稲荷があったから、完全に勘違いしていた。

無事 京都駅到着。
少し時間があったので、一本早い(といっても十数分しか違わない)新幹線に乗りました。

睡眠

品川駅到着。
環状線、京王線で東大駒場着。

ざっとみて1時間ほど早い。

散策

売店はいたって普通。本屋は11時に開くからお預け。
建物は、とてもきれいなものと、古くレトロなものが入り混じった感じ。

少し、自分を落ち着かせるため、勉強。

時間になったので、訪問。

先生の研究から始まり、質問をしていくと、
どうしても僕の興味がある、非線形、カオス系の話になってしまう。
最終的には、これからどういう風に、研究室訪問をしていったらいいかという、
非常に失礼な話をしていた。

様は、興味が合わないなという話。

しかし、気は非常にあったので(と僕は思っている。。。)
気さくに、色々と話すことができたし、僕が考えていることに、
色々と意見も頂いた。

とっても為になった感じ。

終えて、食堂で昼食。

食べたけど、これまた普通。
まぁ、同じ生協だから変わることは無いんだけど。

同じ建物の、パスタの店、行っとけばよかったかな。。。

移動。

京王→環状線→地下鉄(東京メトロ)→つくばエクスプレス

東京メトロを、地下鉄の一つの線だと勘違いし、多少戸惑う。

どうせなら、新しい、大江戸線に乗りたかった。

つくばエクスプレスは、駅に着いた感想が、大阪で言うモノレール。

建物はきれいだけど、人は少ない。運賃が高い。
実は、この道筋の時間。1時間半ほどかかっている。

理由は筑波大が、茨城にあることに尽きる。
全然知らなかった。。。(恥)

つくばエクスプレス、片道運賃1000円なり。
びっくりするほど、田んぼが広がっていた。

つくば駅から、周回バス乗り場に迷う。
右回りと左回りを、逆に乗り、大学で迷う。

広くて複雑。

建物と建物の間隔が狭くて、大きな道もあまり無いから、
とっても迷う。

散々迷って、目標の第一類B棟に到着。
とおもったら、先生の部屋が無い。物理系の研究室はあるのに。。。
おかしいと思って、その建物を少し探索。

良くわからないから、外に出てみる。

もう一度地図を見て、たどり着いたのは、もう少し古い建物。
良くみたらここも第一類B棟がある。
ここはB~Eまでが、くっついていて、良くわからない構造。
研究のしがいのある建物で、先生の部屋を発見。
まだ2時間ほど早いので、戻って、どっかで待つことに。

外に出る前に、地図を見て頭を整理していると、
おばさんが、「大丈夫?迷ってない?」
と、声を掛けてくれた。僕は、
「もう大丈夫です、だいぶ迷いましたけど。。。」と返答。

先ほどの建物に行くと、総合・・・B棟 と書かれている。
う~ん。

食堂のほうに行って、ジュースでも飲もうかと行くと、全部閉まってた。
おまけに、今日は入試らしく、食堂にすら入れない始末。

疲れが出ていて、頭が少し痛いのに。。。

仕方ないから、外のベンチでごろ寝。

当然、安眠などとはほど遠い。

図書館も、カードがなくて入れないので、入り口近くで読める新聞を読んでいた。

約束は確か5:30分から

5時になって、少し早いが、先生の部屋へ。

先生が、入ってすぐ「迷った?」と聞いてきた。
僕は「はい、だいぶ」と答えたが、後でこの真意がわかることに。

先生の研究をお聞きしたいんですがというと、
ウンといった後、目をきらきらさせて、微妙な間。。。。

しばらくして、機関銃の様な先生のトークが始まった。
こちら側の疑問を聞くタイミングを殆どくれない。

一生懸命についてゆき、疑問に感じた所を何とか覚えておいて、聞くのがやっとだった。
十分消化して、質問したとはとてもいえない。

先生の研究は、僕の関心にとても近かった。

内容は、散逸系の量子力学、量子コンピュータ、乱流である。

すべてカオスが関わっていて、マルチフラクタル理論といった独自の理論系を用いて、
場の量子論の空間の相転移(これがあまり良くわからない)をうまく表現。

常電導が超伝導に変わるとき、ゲージを変えて、今の量子力学では扱っているのだそうだが、
このゲージ変換をしなくて良いというのが、先生の理論。

理論体系には、幾何をふんだんに盛り込み、分類にもまた数学を導入して、
かなり新しい物理という雰囲気は感じられた。

だが、ここでも非線形を使って、粒子の時間変遷を追いたいという僕の、興味とは、
ほんの少しだが様相が違う。

少し落ち着いてから、先生に
量子論は場の理論として考えると、実際には粒子自体を扱っていなくて、
場のみを扱っている。だから、実際に、粒子がどう振舞ったかではなくて、
どんな風に振舞いうるのかという確率でしか、その演算が現れないのではないか
という疑問をぶつけてみたが、返答は無い。(嫌われてしまったらしい)

先生は、自分の理論を用いて、新しいことを発見することに今は夢中なようで、
それもいいが、何か、100%先生を受け入れられないものを感じた。

帰りはつくばエクスプレス→秋葉原→環状線→新幹線→JR奈良線→京阪→自宅。

到着は12時。

長旅だった。

ブラジルからの帰還者

例の喫茶店で、ラテを飲みながら、Jazzを聴いていますと、懐かしい人に遭遇。

僕のウッドベースの持ち主の、彼。
というか、この人のほうを先に知っていたのですが。。。

O塚氏である。
奥さん(まだ結婚して無いと思う)が、ブラジルに行くことは、聴いていたけども、
もしや、二人で行っていたとは思いもよらず、
ひたすら、その苦労話を聞いていました。

言葉を知らないで、外国に行くのは本当に辛そうだというのが本音。

なんとお二人は、言葉も知らずに飛び込んで、
ミュージックスクールで言葉がムリだから辞書片手に筆談。
働きたいと直訴して、
無理やりに、友達を増やし、
死に物狂いで、生きてきたらしいです。この一年。

車が無いから、エレピを乗せてもらって、つれてってもらい、
帰りも同様。

最悪の時には、ドラッグと酒で泥酔した人を、必死で駆り立てて、
送ってもらったこともあったらしいです。

アパートでは、朝起きたら、自分の部屋でイタリア人がシャワーを浴びていて、
話を聞いたら、観光できているとのこと。(大家さんが勝手に了承したらしい)
外に出るだろうと思っていたら、家で、SEXと薬漬け。
さすがに嫌になって、引っ越したそうです。

ライブをするときは、いつも誰かに車を頼むか、
タクシーでライブ会場に。

帰り道がわからないから、何度も死にかけたそうです。

街では泥棒と警察が銃撃戦をしていたり、

友人のサックス300万相当が、盗まれていて、
泥棒がいるから捕まえてくれと警察に頼んだら、
何を盗まれたんだと聞くだけ。

彼らにとっては、事後処理が仕事になっているらしい。

他にも、二階に住んでいて、
一階の大家が、雨漏りの工事をしたために、
雨の時、部屋が洪水になり、大惨事に。

共同の風呂に行って、帰ってきて、部屋を空けようとしたら、
鍵が壊れてたとか。。

まぁ日本ではありえないなぁとおもう事が、向こうでは連発していたらしく、
相当大変だったらしいです。

皆さんも気をつけましょう。

2007/03/06

御心配おかけ致しました

長い間、心配を掛けるような日記を書いといて、ほったらかしにしてごめんなさい。

父は、3月1日午後8時55分 永眠いたしました。

ちょうど、ブログを書いた晩の2時に(完全に寝てました)電話がかかってきて、
(最高)血圧が60になって、危険な状態だから来てくださいというものでした。

母方の祖父祖母が来ていたので、二人も一緒に病院へ。
タクシーで、夜の阪神高速を駆け抜けて、20分ほどで病院に着きました。
夜を徹して、母、兄、祖母、祖父、そして僕が見守り続けました。

全身に熱を帯びた状態で、次第に四肢(両手両足)の体温が下がってきました。
体は、依然熱を帯びています。

心拍数は正常で、血圧は殆どはかれない状態になっていました。

朝になって、次第に全員の疲れが出始め、夫々が軽く仮眠をするような状況になりました。

昼には、母の兄 夫婦が応援に駆けつけ、祖父と祖母は帰宅、
僕らは仮眠を取るようになりました。

夕方になり、母の兄の奥さんのお母さん(ややこしい。。。)が、
60代前半でなくなったときには、あと2,3日といわれて、一月持ったという話が出て、
2,3時間仮眠を取った僕らは、一次帰宅。
母の兄夫婦に任せて、一度帰宅、
(まともな)ご飯を食べて、僕と母が病院に向う途中でした。

母の兄夫婦から電話が入り、
呼吸の間隔が伸びてきている。危険な状態だ
と連絡が入りました。

母は、もう間に合わないと思い、がっくりとしていましたが、
病院に着いた時には、まだ心電図の音が聞こえていました。

母の兄の奥さんは、僕らの姿を見た瞬間に、
半分気を失いそうになりながら、よかったー
と声をあげました。

呼吸はしているのかしていないのかわからない状態で、
それまでしていたように、肩は動きませんでした。

兄は電話をもらってから、すぐに連絡をしたので、
10分から15分遅れてくるはずです。

脈はかなり不整脈になっていて、止まったと思えば動き出します。

僕は、父の顔のそばで見守っていました。

母の兄夫婦から、母に連絡して5分も絶たないうちに、
急に状態が悪くなったことを、しきりに訴えて、どうなるかと思ったと
僕らに話していました。

母は、あと少しで兄が来るから、それまでがんばってと、
半分あきらめも混じりながら、肉の塊となりつつある父をさすりながら訴えています。

母の兄夫婦がしゃべっている時でした。

何度か目の心停止が来ました。

まだ、持つだろうと次の音を期待していた中、


聞こえたのは、さすった衝撃で鳴った、音だけでした。

主治医の先生がやってきて、心臓の音を確認。
先生も、処置が後手に廻ったことを悔しそうにしながら、
良くがんばりはったと、いい、父の死を確認いたしました。

父についている管を抜き取るため、
僕ら家族は別室に移動。

兄の到着を待ちました。

死んですぐに兄に電話した時、
兄は、病院がある駅を降りた所でした。

管を抜いた後、伸びた髭を剃り、
服を換え、力が入らなくなった為、下がった顎を固定し、
まぶたを閉じて、霊柩車を待ちました。

冷たくなった父の体は、
そのしっかりとした骨に、肉がへばりついているだけの、
冷たいものでした。

死因は癌性腹膜炎
原因は胆管癌

父の60年と半年の人生が終わりました。

ご存知の通り、死後直前から葬式が終わるまでというのは、
全力疾走するようなものです。

病院から運ばれた遺骸をおって、葬儀場へ
葬式の日程から、内容、飾る花、何人ぐらい呼ぶか、
誰が番をするのか、

などなど、一気に押し寄せてきます。
この日は、とりあえず、
朝からの睡眠不足がピークに達していたので、
晩はせず、家に帰ることにしました。
病院にあった荷物は、整理している余裕などありません。

次の日、葬儀場に出向いて晩をし、、
親戚に連絡を取り、焼香順から、止め焼香を誰にするか、
父の入棺など、この日も走り回りました。

次の日は通夜で、父方の親戚は、近くの方以外は来ないことがわかったので、
付き合いのある、母方の親戚のため、世話も殆どなく、晩に通夜があるため、
僕は、成績発表と、卒研決定があるので学校へ向いました。

今週一週間は、父が意識を失っていて、何ぞ何ぞと、病院に呼び出されたため、
毎日のように病院で、飯を食い、晩に家に帰る生活をしていました。

その為、学校に出向いた日は、疲れも溜まっていて、
だいぶ眠かったことを覚えています。

みんな、ブログ見て、心配してくれてありがとう。

と、言いつつ、時間を気にせず、数学科の友達と話し込んでしまい、
通夜1時間前に到着。
ちょっと危なかった。

通夜が終わり、晩御飯は葬儀場で。

この時からぺちゃくちゃぺちゃくちゃと、他愛ない会話が、
おっちゃんやおばちゃん、じいちゃん、ばあちゃんと続き、
時々、思い出したように、葬式が入ってきました。

父が危篤だという電話を受ける前まで、
祖父と近くにできた温泉に行こうという話しをしていたので、
僕ら家族や、祖父祖母、叔父叔母(叔は年少の意味)、伯父伯母(伯は年長の意味)、
の疲れがピークに達していたこともあり、明日葬式の後に、
風呂に行くことになりました。

葬式の後に、九州から来た、父のいとこから、
父が、僕ら家族に対してしていたように、頑固で、気使いであったこと
自分の思いどうりにならないと、怒り出すことなど、を聞き、
昔から、変わらなかったんだなと感心していました。

父は、独善的な面があるため、友人が少なく、
かといって、マメであった為、僕らの知らないうちで、
色々と、やっていたので、残った僕らは、一つ一つ
ブラックボックスを開ける破目に会うことになりました。

母は、友人だけど、連絡を取ったり付き合いがあったりしなかったからと、
入院中に連絡取らなかった、父の友人から、
入院した時に何故言ってくれなかったのかと、迫られたと、
今日言っていました。

昨日からは、父のものを整理し始めましたが、
何せ、デジタル機器から本まで、色々とあって、
どこから手をつけ始めたらいいのかと迷うばかりです。

今日は電子手帳を整理したのですが、
整理が終わって、ふと父の机の引き出しを開けると、
また一つ出てきます。
これで4っつ目。

わけがわかりません。

iPod二つに、デジカメ二つ、PSPにニンテンドーDS。
USBメモリーや、各種メモリーカードが、計15~20ほど見つかりました。
そして、それらとパソコンをつなぐケーブル類。

まだCD-Rが残っています。

頭が痛くなりそうです。