古今東西音楽というものは、常に誰かを魅了することで
その存在意義を見出してきたし、
聴く人々の人数や、力の有無に関わらず、
ある種の支援者に依って成り立ってきた。
クラッシックは長い歴史があるためか
殆ど、コンサートホール以外での演奏は無いが、
歴史を振り返れば、小さな部屋の一室で
少人数を相手に演奏されてこなかったわけではない。
コンサートホールでの演奏は
ジャズのビッグバンドがそうであったように、
歴史的な経緯を見れば、
聞き手が沢山いるという状況がなくなれば、
成立しなくなるのは当然の成りゆきだと思う。
そのような状況下で、ある音楽が大衆化するためには、
もしくは、支援者を見つけるためには、
彼らを音楽で魅了する機会がなければならない。
かつて有名になったジャズミュージシャン達は
いま人が集まらなくなったとしても、ライブと高額のギャラを求めている。
すでに大衆受けしていないジャズという音楽がおかれている状況と正面から向きあっていない様に思える。
(彼等はかつての栄光を口にし、聴衆が気がつかないことをいいことに、その枯れきった才能を自慢げに見せつけてくる。彼等が食べていける理由は彼の今の音楽でなく、かつての栄光を振りかざしているためで、結局、そうやって栄光に寄ってくる人々は限られてしまい、客を集めきれない裸の王様になってゆく)
彼等はまず、自らを知らない人々のもとへ行き、人々を魅了しなければならない。
それができなければ、その人の音楽に存在価値は無い。
そのとき、どうすれば観客を魅了できるかという葛藤を味わい
そこから、人々にとって魅力的な音楽が生まれるものと信じている。
クラッシックであれジャズであれ、
ソリストという人々は、すでにある価値観にそった表現をしているわけだけではなく、
観客との葛藤の中から、自らの存在価値を見出していると思う。
自らの理想との葛藤から存在価値を見出す人もいるが、
それは、結局その理想がたまたま、観客に受けた為で、
そのような人々というのは極稀にしかいない。
音楽は観客を魅了することができて初めて成り立つもののはずだ。
演奏技術はその為の手段であって、目的ではない。
そこを履き違えないようにして、初めて、
人々に悦びを与える事ができると思う。