提言とは、以前より幾度となく言い続けてきたことです。
ネット上に数学、理科学に関する公式、定理、法則、現象に関するあらゆるものの
総合的なアーカイブを作るべきではないかというものです。
巷に八百万(やおよろず)の教科書はあれど、
完全に、科学的に書かれた教科書は、ごくごく一部です。
特に応用分野では甚だしく、途中変換がわからなくなるような
荒い教科書が多々あります。
その時、学習者としては、著者の間違いなのか、ただ計算できないだけなのかがわかりません。
原因としては、容易にその基礎となる学問に触れることが出来ない点にあります。
つまり、確かに参考文献として教科書は挙げられていますが、それらもまた完全なものではなく、
逐一そのような形で、調べていっても無駄な時間をすごすだけで、
折角、蓄積されてきた、過去の偉人の遺産を無駄にしているとしかいえません。
また、単に学習者だけではなくて、
研究者にとっても、そのようなわずらわしい作業はまったく研究に役に立ちませんし、
早く正確な情報を得ることが出来るに越したことは無いわけです。
しかしながら、単にそれらの情報をまとめるということでは、弊害が起きてしまいます。
一つに、誰がその情報に対して責任を持つのかという点です。
もう一つに、どのように伝えるかという点です。
全ての情報を、同じ人が全て書いたならば、それは最もいいことですし、
責任の所在、信憑性の評価が出来ます。
しかし、全科学、全数学となると話は違います。
ようは、一人ではムリだということです。
また、種種の教科書を読んでいればわかるように、
あることをテーマにしていたとしても、その教え方は千差万別で、
かなりの年月を経てやっと落ち着いてきます。
数十年という長い長いスパンです。
ようは、理論に対する、多様な伝え方が可能なメディアでなくてはなりません。
従って、
教科書の様な伝えるページ
各定理や公式、法則などをアーカイブするデータベース
を、例えば証明法をランダムに表示することで伝えるなどして
または、加筆可能にしたり、
議論の場を設けたりすることによって、
双方向的なメディアにすべきではないかと思います。
データベースは不特定多数が、
教科書は、個人の責任で(詰まり自分のページ等の形で)
執り行うということです。
ここで、信憑性に対しての議論ですが、
論文と、このメディアは一緒にすべきでは無いと思います。
つまり、このメディアは、理解しやすくするために作られたもので、
論文としての価値はありません。
ただ、法則を、例えば議論中のページなどを設けることによって、
またそこに論文のアドレス(どの雑誌の何号何ページ目か)を掲載することによって
信憑性を設けるべきだと思います。
このようなメディアを用いると、
世界の研究速度は一気に加速すると思われます。
簡単に言えば、どこにどんな問題がどのような形で提示されているかがリアルタイムでわかるからです。
そして、このメディアの書き込み(書き換え)履歴から、誰が書き込んだのか(特定可能にすべき)
を明らかにすることによって、専門家がその分野に対してしっかりとした説明をしたことになるので
かなり明確に、諸問題が浮き彫りになると思います。
このようなメディアは、しかしながら、
しっかりとした国際的な団体によって、管理されなければなりません。
また、各種学会による「全面的な」支援が必要です。
一個人、一大学などでは到底不可能な世界だということです。
このようなメディアの登場によって、
よりフレキシブルな科学研究の場が実現することを願っています。
2 件のコメント:
この内容を議論すると難しいですね。科学全般の内容を体系的に捉える事と,学習者の理解のための導入展開を,同じ本で納める事が出来ない事でしょう。
(専門書と参考書の違いでしょうかね)
物理の事は分かりませんが,数学においては人によって教え方がまったく違いますし,ある人には自然に思える式展開が,別の人にとっては不自然な展開に思える時があります。だから万人にとって「これは分かる!」と言った内容の本を作る事はかなり難しいのではないかと思われます。
今回の確率論にしても,三田キャンパスの図書館の本は専門家に分かる確率論が多く,初学者に分かる本はほとんど見あたりませんでした。色々調べて式展開を追っていくと初めて分かる事が多かったのですが,教官が作った問題に対応する事は出来ませんでした。それでも分かろうとする人には道が開け,そこで諦める人には道が閉ざされるのかもしれません。
科学の議論をしながら精神論が裏にあるような話をしています。これは数学に取り組んでいる時の自分の感覚を述べているのですが,この感覚が他の人に共感出来るのかはわかりません。きっと数学をやっていない人には通用しない話だと思います。
科学がもっと発展するには色々と難しい過程を辿ると思いますが,まずは初学者に興味を抱くような内容が普及して欲しいですね。
体系的に捕らえる事と
学習者のための導入展開
という言葉を、
論理的な繋がりと
学習者の認知的許容量に合わせた展開と
換言するならば、その通りだと思います。
いわんとされていることと違うかもしれませんが、定理や公式の類いは、
基本的な事柄から出発して、有機的な展開(一箇所から幾多の方向へと展開)しています。
しかし理解するということは、人間の認知行動ですから、単純に事象だけでは入ってきません。所謂ストーリー記憶(学年新聞特別号の投稿を参照して下さい)として記憶するほうが、刺激が強いため、記憶しやすくなります。
しかし、世に数多の話はあれど、逐語的に、一分一秒まで正確に再現しているような話はありません。
換言すると、要らない部分を後々に、記憶から捨てればいいのです。ストーリー性は理解の時に非常に需要になってきます。
そして、残った記憶と、新しいストーリーを作り、またいらない記憶を捨てます。
この、記憶と忘却という作業が、生物の論理性や合理性の源で、コンピューターには無い部分です。
こうした事を考えると、完全に
論理的な繋がりと
学習者の認知的許容量に合わせた展開と
は分けるべきですね。
理解初歩の過程で、古典的な理論を用いて説明したりしていますが、
要は人が、生まれでた後に、泳ぐしぐさをしたり、四つんばで歩いたりと、それまで得てきた、活動するための知恵を一気に学ぶためだと思います。
しかしながら、教える側の視点に立ったり、意欲的にどのような繋がりがあるか知ろうとする時、非常に煩雑なメディア(媒体。詰まり教科書)しかありません。結局、大局的に分野を整理する手段を、誰も持ち合わせていなかったのではないでしょうか。
コンピュータを用いて、文章中にハイパーリンクを使うことで、この有機的な繋がりは構成可能です。また、インターネットのCGIを用いることで、分担して作業をすることが出来、また依然した成果を、容易に利用して新たな作業を開始することが出来ます。
また、参加者を研究者に限定して、書き込んだ研究者のホームページを確認することが出来ます。
インターネット時代の最も正しい展開の仕方であると思います。
無意味な情報氾濫が、世界を混乱させている気もしますし、理性の無い情報が世論の動向にまで及んでいる気がします。
この投稿が、科学の新しい展開と、社会の正しい道を照らすならば、非常に素晴らしいことと思いますし、実現することを心から願っています。
コメントを投稿