2007/01/30

政治と関わりのある方々へ

最近、中国人を主として、
高騰した金属の加工品を盗む被害が多発していますが、

くず鉄を、輸出するのをやめて、
製品や原材料以外の輸出を禁止するのはいかがでしょうか?
同時に、国内で出るごみを、完全にリサイクルする方向に
国主導でするといいと思います。

第一に、リサイクル産業という、日本のお家芸ともなっている産業の育成に繋がります。
第二に、人的資源を多く使う分野であるため、雇用確保に繋がります。
第三に、資源が乏しい日本における、資源確保の安定性を国内消費によってまかなえます。
第四に、自治体にとって、ごみ処理経費削減に繋がります。
第五に、今回の様な、外国人犯罪者による金属加工品窃盗事件の取締りがしやすくなり、盗んだものを容易に持ち帰れません。

金属価格が高騰して将来的にも高い水準で推移することが予想される今こそ
リサイクル産業を育成して規模を大きくすることによって
この分野における採算性を高め(現在は赤字が多いですが)
また、海外にその技術を輸出することで、日本の長期的な成長が見込めると思いますが、
いかがでしょうか?

2007/01/28

湯川秀樹・朝永振一郎 生誕百周年展


日本が生んだ偉大な物理学者、
湯川秀樹と朝永振一郎の偉業と、生涯を辿る記念展が
京都大学総合博物館で執り行われていたので、行って来ました。

二人は、高校、大学と一つ違いの同窓で
共にいいライバルであったようです。

湯川は非常に優れた直感で先を見通し、
朝永は綿密な計算によって優れた成果を上げたと伝えていました。

彼らが導き出した方程式や、そのノートを見ていると、
非常に身近に感じることが出来ました。
また、理研でのエピソードは非常に羨ましく感じました。
のびのびとした自由な雰囲気の中、積極的な討論をし
新しい物理を語り明かした様などは、
生きているうちに、一度でいいから経験したいと思います。

また、世界連邦政府樹立への活動もまた、
物理を愛する人間としての湯川、朝永の姿を感じられた気がします。

今回の展示会で感じたのは、
非常に素晴らしい物理学者だと思うよりも、
非常に羨ましい学者人生を歩んでこられているなという気持ちです。
二人のようにノーベル賞を受賞したいなどと大それた事は、思いませんが、
彼らのように、人生を物理にささげたいとは、強く思います。

二人のように、物理への愛を潤沢に注ぎ込んだ人生は、
本当に僕が、歩みたい人生なのかも知れません。

2007/01/26

久しぶりの日記



これが、僕の研究対象であるカオスです(笑)
てなわけないでしょw

すさまじい状態です。
これが、テストのあとという感じですか。
夢破れて山河あり。。。違うか。

明日は、気持ちを入れ替えるためにも、
片付けなければなりませんねw

数学・理科学アーカイブ

提言とは、以前より幾度となく言い続けてきたことです。

ネット上に数学、理科学に関する公式、定理、法則、現象に関するあらゆるものの
総合的なアーカイブを作るべきではないかというものです。

巷に八百万(やおよろず)の教科書はあれど、
完全に、科学的に書かれた教科書は、ごくごく一部です。

特に応用分野では甚だしく、途中変換がわからなくなるような
荒い教科書が多々あります。
その時、学習者としては、著者の間違いなのか、ただ計算できないだけなのかがわかりません。

原因としては、容易にその基礎となる学問に触れることが出来ない点にあります。

つまり、確かに参考文献として教科書は挙げられていますが、それらもまた完全なものではなく、
逐一そのような形で、調べていっても無駄な時間をすごすだけで、
折角、蓄積されてきた、過去の偉人の遺産を無駄にしているとしかいえません。

また、単に学習者だけではなくて、
研究者にとっても、そのようなわずらわしい作業はまったく研究に役に立ちませんし、
早く正確な情報を得ることが出来るに越したことは無いわけです。

しかしながら、単にそれらの情報をまとめるということでは、弊害が起きてしまいます。

一つに、誰がその情報に対して責任を持つのかという点です。
もう一つに、どのように伝えるかという点です。

全ての情報を、同じ人が全て書いたならば、それは最もいいことですし、
責任の所在、信憑性の評価が出来ます。
しかし、全科学、全数学となると話は違います。
ようは、一人ではムリだということです。

また、種種の教科書を読んでいればわかるように、
あることをテーマにしていたとしても、その教え方は千差万別で、
かなりの年月を経てやっと落ち着いてきます。
数十年という長い長いスパンです。
ようは、理論に対する、多様な伝え方が可能なメディアでなくてはなりません。

従って、
教科書の様な伝えるページ
各定理や公式、法則などをアーカイブするデータベース
を、例えば証明法をランダムに表示することで伝えるなどして
または、加筆可能にしたり、
議論の場を設けたりすることによって、
双方向的なメディアにすべきではないかと思います。

データベースは不特定多数が、
教科書は、個人の責任で(詰まり自分のページ等の形で)
執り行うということです。

ここで、信憑性に対しての議論ですが、
論文と、このメディアは一緒にすべきでは無いと思います。
つまり、このメディアは、理解しやすくするために作られたもので、
論文としての価値はありません。
ただ、法則を、例えば議論中のページなどを設けることによって、
またそこに論文のアドレス(どの雑誌の何号何ページ目か)を掲載することによって
信憑性を設けるべきだと思います。

このようなメディアを用いると、
世界の研究速度は一気に加速すると思われます。
簡単に言えば、どこにどんな問題がどのような形で提示されているかがリアルタイムでわかるからです。

そして、このメディアの書き込み(書き換え)履歴から、誰が書き込んだのか(特定可能にすべき)
を明らかにすることによって、専門家がその分野に対してしっかりとした説明をしたことになるので
かなり明確に、諸問題が浮き彫りになると思います。

このようなメディアは、しかしながら、
しっかりとした国際的な団体によって、管理されなければなりません。
また、各種学会による「全面的な」支援が必要です。
一個人、一大学などでは到底不可能な世界だということです。

このようなメディアの登場によって、
よりフレキシブルな科学研究の場が実現することを願っています。

2007/01/22

句集についてのお知らせ。

以前紹介した通り、
僕が作った句を紹介するページを立ち上げたのですが、
句ってのは、搾り出して出るようなものではないので
(大抵そういうやつは、後で見た時面白くない)

試験期間の気晴らしに、
以前創ったものを掲載いたします。

って、こういうこと実は何度もしていて、
GREEやら、MSN Myspaceやらと渡り歩いてきた句たちです。

僕の句は、読み手が読んだ時に、
初めて完成するように、創っている(つもり)なので、
短い言葉の列を、いろいろな時に読んでみてください。

字数が少ないのは、出来るだけ、
表現の幅を絞り込まないようにするためにです。
(これが一番難しい)

暇つぶしにどうぞ。

2007/01/21

科学の定義、研究法ときて。。。

次のテーマですが、
物理学者の卵として、
ネット環境を用いた、壮大な構想をお話しするつもりです。

ただし、テストが終わってからのお楽しみですよw

2007/01/19

新しいページを新たに設けました。

なかなかうまく整理がつかなかった、詩のページを
新たに設けました。

あまり見に来る人がいるとは思えませんが、
暇な時にでも、覗きに来てください。

http://poetic-aohmusi.blogspot.com/

2007/01/14

学級新聞特別号「一番楽な勉強の仕方」

大学の数学家教育法で学級新聞を作る課題があり、
このようなものをたらたらと作りました。
時間が余っている方はどうぞ。
余っていない方もどうぞ。

勉強を学ぶ

 僕が高校時代に一番苦労したのは勉強の仕方がわからないことでした。

 やってゆくうちに、授業を真面目に受けることが一番効率がいいことだけはわかりましたが、それでも未だ不十分で、自然と勉強をする方法について、情報を集めていたような気がします。

 今日は、だから、勉強の仕方がテーマです。

 後半は具体的な勉強の仕方として、一番色々な勉強に通じると見られる、数学の勉強法をお話します。

 勉強は、学校でする以外にも、社会に出てからや趣味をする上で、使うもの。勉強法を知ることが、色々な能力を身につける第一ステップだと思います。

記憶とその種類

記憶は大まかに2種類に分かれます。

 一つは短期記憶です。例えばこれは、電話を掛ける時や文字を写し取る時、頼まれたことを覚えておく時などに使ってます。この記憶は個人差がありますが大体、7つ程度までしか覚えられないといわれています。電話番号などは、この7つの壁を乗り越えるために、7つのまとまり(チャンク化)にして覚えやすくしているのです。

 二つ目は長期記憶です。じつはこの長期記憶が曲者で、さらに4種類に分けられるのです。

 長期記憶1つ目は、エピソード記憶です。映画を見て感動したとか、ふとした瞬間に好きなこのことを思い出す等、皆さんがイメージしている記憶とほぼ一緒です。ということは、他に3種類も記憶があるということなんですね。

 長期記憶二つ目は、意味記憶と言います。書いて字の如し、言葉と言葉、言葉と意味を繋いでいる記憶ですね。例えば木村拓也とSMAPとか数学と計算、社会と歴史、校長先生とハゲ(多いということです) など、なんでもありです。ただ、エピソード記憶とは決定的に違産文があることを知っておかなければなりません。それは、公園を歩いていて、急に校長先生とハゲを思い出すということはありません。あくまで、「小学校」の校長先生ははげていた「なぁ」など、エピソード記憶として思い出されるだけなのです。つまり、意識しないと思い出せない記憶なんですね。皆さんもテスト中に意味記憶を思い出すつもりがエピソード記憶になってしまった経験はあると思います。意味記憶は、エピソード記憶を簡略化していった結果といえます。これはコンピューターにはない「忘れる」という人間の特技の一つですね。

 二つ目の長期記憶は手続き記憶と言います。字を書く、階段を上る、二本足で歩く、ゲームの操作をする。計算をするなどです。これら全ての記憶は生まれつき持ったものではありません。つまり訓練の末に身についた知識なんですね。ですからこれが勉強の本質といえるかもしれません。この記憶は意識しても思い出せないことも気をつけなければなりません。

 三つ目の長期記憶はプライミング記憶と言います。この記憶は次の文章を使って説明します。

 きょうぼくは自転車をこいで学校に来ました。ぼくの自転車はずいぶんの長く乗っているので金属部分がさび付いてキイキイといっています。けど、長く乗っている分、愛着があって、なかなか買いかえれ。ほくがこの自転車を買い換えるのはいつになるんでしょうね

間のいい人はきっと気づいてくれましたね。三度出てきたぼくという言葉に着目してください。三度目のぼくがほくになっています。これがプライミング記憶です。勘違いの元でもあるんです。

さてさて記憶の種類の次は記憶している細胞のお話になります。この二つの準備をして初めて勉強の話が出来るんですね。ですから、もう少しがんばってみてください。

記憶する細胞たち

 皆さんは、脳の細胞がどういう種類の細胞で出来ているかご存知ですか?筋組織とは明らかに違いますね。あとは皮膚や髪の毛のような細胞とも。じつは、脳というのは、神経細胞の集まりなんです。ですから、記憶の仕組みを知るということは、神経細胞の仕組みを知ることに繋がります。

 神経細胞というぐらいですから、一つ一つは別れた形で細胞が連なっています。神経細胞の伝わり方は一方通行で、神経と神経とを繋いでいる部分をシナプスと呼びます。じつは、シナプスに伝わる前とシナプス、そしてその後の受容体で、神経の伝達はまったく異なった方法をとっています。では順を追って説明してゆきましょう。

 神経をまさしく電流が流れるという現象が神経の中でも起きています。ただ、少し変わった流れ方をしているんですね。シナプスの前つまり、伝達されてくる細長い繊維の事を軸策と言います。どのくらい長いかというと、長いもので1m程度といわれています。軸策では、伝達は、ナトリウムイオン(Na)が軸策に並んでいる穴を通り抜けることで伝達が行われているのです。このタンパク質でできた穴(ナトリウムチャンネル)は、実に巧妙に出来ていて、イオンが通るときは穴の内壁がマイナスに、イオンが通れない時は内壁がプラスになっているのです。このように体の様々な部分ではタンパク質がまるで機械のように文字通り働いています。このようなタンパク質のことを分子機械といって、その仕組みはまだまだ研究中でよくわかっていません。

 さて話を元に戻して、シナプスではどうなっているんでしょうか。シナプスにはシナプス間隙という電気的に絶縁された領域があります。つまり神経細胞と神経細胞のつなぎ目ですね。そこではどうやって情報を伝えているのでしょうか?シナプス間隙では、じつは、化学物質によって伝達されています。シナプスにはシナプス小胞という、伝達物質をためておく袋が合って、情報が伝わってくると、この袋をぱっと広げるわけです。そうして、隣の細胞に情報を伝えているんですね。

 じつはこの化学物質の量と記憶とが大きく関係しています。シナプスの後の樹状突起と呼ばれる部分では、化学物質が電位に変換されてしまいます。この電位が高いと、うまく他の細胞に伝搬されるのですが、低いとされません。つまり刺激の強いものは伝わりやすいという性質があるのです。

 さて、物語もクライマックスです。この神経細胞を使って、脳の中で記憶が作られてゆく仕組みをお話しましょう。

賢い脳

 脳の中で、私達が経験した記憶が、一番最初にたどり着くところがあります。それは、海馬と呼ばれる、部分で、脳の一番中心近くにあります。海馬と呼ばれるととおり、タツノオトシゴに似た形をしています。実は、経験した記憶たちは、この海馬から約一ヶ月の間、脳に行かないということがわかっているそうです。つまり、一月の間、その記憶が大事な記憶かどうか、私達の脳は判断しているのです。神経の所で述べたとおり、この「判断」は、シナプスの後つまり、樹状突起と呼ばれる部分での電位で判断されているのです。つまり、一月の間の刺激が何回繰り返されたかや、どのぐらい強い刺激だったかで、記憶されるかされないかが決まってしまうのです。一度記憶されると、ほぼ一生忘れません。忘れたと思うのは、実は神経の繋がりが途切れて、思い出せないだけだということもわかっています。しかも、脳の記憶は、寝ている間に形成されているという説があります。つまり、良く寝てよく学んだ人が良くできる人になるのです。楽して覚えた知識は、使わないと消え去ってゆくだけだということを意識しておいてください。

 海馬は所で、脳の中で唯一増加する細胞だといわれています。もちろん使えば使うほど増えます。ちなみに小さい頃はこの海馬は殆どありません。幼児期健忘といわれる、子どものころの記憶がない原因は、このことに起因しています。海馬の細胞の増加は、一度に学習できる量が増加できることを意味します。頭は、使えば使うほどよくなってゆくのです。

長い文章を読んでくれてありがとうございました。最後に、みんなが勉強な苦手な数学を例にとって勉強のやり方をお話します。

 数学を勉強する時にどんなことを意識していますか?

数学を勉強する上で一番大切にしなければならないのは、どんな風に考えたのか、つまり思考過程です。三角関数と呼ばれるsincosは長さが1の円を通る点を考えて、その点の高さがsin横がcosだというイメージは、勉強した人には出来ると思います。こうしたイメージは非常に大切でsin30°が1/2だという事よりも、とっても大切です。ですから、最初のうちはsin30°が1/2だと考えるほうが簡単かもしれませんが、何度も何度も、長さが1の円を通る点を考えて、その点の高さがsin横がcosだと考えることで、いろいろなことに使えるsincosのイメージを捉えることが出来るんですね。今は便利な時代ですから、値はコンピューターが出してくれます。しかし、問題にどんなイメージを持つべきかということに関して、コンピューターは無力です。ですから、考え方を学ぶ。しかも繰り返し繰り返し、同じ考え方を用いることで、記憶してゆくのです。非常に当たり前かもしれませんが、これがベストだと、科学の目線から言うことが出来ます。

 これはまた、他のことにも言うことが出来ます。例えば楽器を練習する時、ドレミファソラシドを口に出しながら、練習していると、いつかその記憶は作業記憶に変わってゆきます。つまり、ドとドの音の出し方が、あなたの中で等しくなってゆくのです。楽譜もそうですね。

 また、スポーツでもそうです。最初はうまくけることが出来なかったのに、繰り返すうちに成功した記憶を繰り返しえることで、うまくけることができるようになります。

 頭の仕組みを知れば知るほど、天才と呼ばれた人たちが、実はぼくらと、さほど変わらないのではないかと思ってしまいます。ただ、彼らは非常にいい勉強のコツを身につけていたんでしょうね。大切なのはコツです。皆さんくじけずに勉強してください。

2007/01/03

科学と研究

◆はじめに
前回は「科学とは」という問いに対して「思考様式である」という結論を導いました。
詳しくは前回「科学とは」を参照を参照してください。

今回の話は、前回の続きで、その研究手法についての話です。
科学は、現象に依拠した原理を立てることによって、合理的に説明すること
と話しましたが、今回は

「現象」とは何なのか、
「原理を立てる」とは何なのか、
「合理的に説明」とは何なのか、という話です。

ここでのキーワードは必要十分条件です。

◆準備
必要条件とは何だったのだのでしょうか。
必要条件とは、
任意の(ありとあらゆる)集合Aにおいて、
ある〔集合である〕事象(評価する対称)Bが存在して、
その事象Bが、集合Aを含む時、
事象Bに対して、集合Aが必要条件であるという。

十分条件とは何だったのでしょうか。
十分条件とは、
任意の(ありとあらゆる)集合Cにおいて、
ある〔集合である〕事象(評価する対称)Bが存在して、
(ここまでは同じ)
その集合Cが、事象Bを含む時、(逆になってることに注意)
事象Bに対して、集合Cが十分条件であるという。

簡単に言ったら、集合の元(要素)の数は
A<B<C
っています。(お分かりいただけたでしょうか…)

◆歴史的背景
近代科学が生まれたのは、間違いなくヨーロッパです。
そのヨーロッパにおいて、大きな派閥が存在しました。
イギリスとフランスにおいてのことです。
彼らは、帰納法と演繹法という二つの手法のどちらが、
科学をするうえで正しいのかという点で、争っていました。

帰納法とは、様々な情報や経験を元に
自然法則を見つけようという視点です。

演繹法とは、様々な仮説を元に、
自然法則を説明しようという視点です。

この争いは、実は両方を用いることが正しいという決着を得ました。
すなわち
帰納法とは実験であり観測あり、
演繹法とは理論であり仮説であります。

ここに近代科学の基礎ができたといっていいと思います。

◆科学の中の必要十分

この争いは、実は両方を用いることが正しいという決着を得ました。
すなわち
帰納法とは実験であり観測あり、
演繹法とは理論であり仮説であります。

と申し上げました。
では具体的な、研究過程とはどのようなものなのでしょうか。

帰納的な研究、つまり実験や観測によっては、正確に現象を捉えることができても
その背後にある、要素にまで迫れません。

演繹的な研究、つまり理論や仮説を立てることによっては、現象を説明することができても
机上の空論、つまり、実際にそうであるかという部分が欠けています。

ここで持ち出したいのは、
冒頭で述べた、必要と十分です。

実験や観測によって、現象に迫る手法は、
観測結果が、ある現象を「含んでいる」ことはわかっても、
その現象だけであるとはいえません。

例えば、時間と位置と温度を測定したとしても、
実際に、現象に関わるものがそのうち二つしかない(実際にはそれすらわからない)
情報過多になり、何が本質かを見極めなければなりません。

つまり、現象よりも大きな事象を観測したことになるのです。
これは必要十分における、
事象に対しての十分条件に他ならないといえます。

理論や仮定によって、現象に迫る手法は、
それらの仮説によって成立した事柄から、ある現象の「要素(らしきもの)を特定できた」といえても、全ての要素が捕らえれたわけではありません。

もしそうならば、この世の中の根源的な物理法則を見つけたことになります。

つまり、実際の現象よりも小さな事象を説明したことになるのです。
これは必要十分における、
事象に対しての必要条件に他ならないといえます。

簡単に言ったら、集合の元(要素)の数は
A<B<C

といいましたが、
研究において、
(理論)<(現象)<(実験)

であり、より現象に迫った理論や実験をすることによって
真理に迫ろうというのが科学的研究手法です。

◆科学と必要十分から何が言えるのか。

この研究手法は、もちろん科学的です。
つまり、原理原則を、現象に依拠することによって
覆す可能性があるのです。

しかし、実際には覆すという言い方は正しくないかもしれません。
前回も、特解であると言いましたが、

ある仮説が、ある事象を説明できたと言うことは
要素自体は含んでいたことになります。

したがって、それまで立てられた理論を、
もう一度、新たな要素を含む(またはより根源的な要素を仮定する)すとによって
理論を立て直す必要が生まれます。
これによって、それまでの視点が覆る可能性があるということなのです。

少し首尾一貫していませんが、
仮説から理論を導くので、
仮説が十分現象を捉えきれていなければ、
理論が間違っているということがあるということに、
注意してください。

科学は厳密に現象を捉えることは可能ですが、
理論から生まれた、科学的知識が、普遍性があるとは限りません。
むしろ、正確な議論ほど、
「~である可能性が高い」「~と考えられる」といった、
現象に対する謙虚さが必要になります。

「買ってはいけない」と断言することは言語道断ですし、
「買ってはいけないは買ってはいけない」と言うことも言語道断です。
そもそも、断言できるほどの知識など、人間は持ち合わせていません。
あくまで、可能性があると言うのが正確な議論になります。

この点を勘違いされている方が多いと感じています。
ご注意ください。

◆おまけ

ちなみに、こうやって議論をすること(論を述べること)は
一般に、必要条件を繰り返し用いています。

つまり、これが成り立てば、これが成り立たなければならないといっています。

皆さんが、あっそうだなと感じた時に、
つまり、経験と照らし合わせて、それに合致したときに、
必要十分に近づきます。

しかし、人間の現象を捉える感度は、
変化に対して敏感なのは確かめられているようですが、
それが、正確に現象を捉えることに繋がらない(基準がそのつど変わる)
ので、必要の部分がいくら正確であっても、
十分性を人間の感覚に頼るのは危険です。
ご注意ください。

(と言ってしまうと、この議論すら無意味意なるのですが…)