2007/01/22

句集についてのお知らせ。

以前紹介した通り、
僕が作った句を紹介するページを立ち上げたのですが、
句ってのは、搾り出して出るようなものではないので
(大抵そういうやつは、後で見た時面白くない)

試験期間の気晴らしに、
以前創ったものを掲載いたします。

って、こういうこと実は何度もしていて、
GREEやら、MSN Myspaceやらと渡り歩いてきた句たちです。

僕の句は、読み手が読んだ時に、
初めて完成するように、創っている(つもり)なので、
短い言葉の列を、いろいろな時に読んでみてください。

字数が少ないのは、出来るだけ、
表現の幅を絞り込まないようにするためにです。
(これが一番難しい)

暇つぶしにどうぞ。

2007/01/21

科学の定義、研究法ときて。。。

次のテーマですが、
物理学者の卵として、
ネット環境を用いた、壮大な構想をお話しするつもりです。

ただし、テストが終わってからのお楽しみですよw

2007/01/19

新しいページを新たに設けました。

なかなかうまく整理がつかなかった、詩のページを
新たに設けました。

あまり見に来る人がいるとは思えませんが、
暇な時にでも、覗きに来てください。

http://poetic-aohmusi.blogspot.com/

2007/01/14

学級新聞特別号「一番楽な勉強の仕方」

大学の数学家教育法で学級新聞を作る課題があり、
このようなものをたらたらと作りました。
時間が余っている方はどうぞ。
余っていない方もどうぞ。

勉強を学ぶ

 僕が高校時代に一番苦労したのは勉強の仕方がわからないことでした。

 やってゆくうちに、授業を真面目に受けることが一番効率がいいことだけはわかりましたが、それでも未だ不十分で、自然と勉強をする方法について、情報を集めていたような気がします。

 今日は、だから、勉強の仕方がテーマです。

 後半は具体的な勉強の仕方として、一番色々な勉強に通じると見られる、数学の勉強法をお話します。

 勉強は、学校でする以外にも、社会に出てからや趣味をする上で、使うもの。勉強法を知ることが、色々な能力を身につける第一ステップだと思います。

記憶とその種類

記憶は大まかに2種類に分かれます。

 一つは短期記憶です。例えばこれは、電話を掛ける時や文字を写し取る時、頼まれたことを覚えておく時などに使ってます。この記憶は個人差がありますが大体、7つ程度までしか覚えられないといわれています。電話番号などは、この7つの壁を乗り越えるために、7つのまとまり(チャンク化)にして覚えやすくしているのです。

 二つ目は長期記憶です。じつはこの長期記憶が曲者で、さらに4種類に分けられるのです。

 長期記憶1つ目は、エピソード記憶です。映画を見て感動したとか、ふとした瞬間に好きなこのことを思い出す等、皆さんがイメージしている記憶とほぼ一緒です。ということは、他に3種類も記憶があるということなんですね。

 長期記憶二つ目は、意味記憶と言います。書いて字の如し、言葉と言葉、言葉と意味を繋いでいる記憶ですね。例えば木村拓也とSMAPとか数学と計算、社会と歴史、校長先生とハゲ(多いということです) など、なんでもありです。ただ、エピソード記憶とは決定的に違産文があることを知っておかなければなりません。それは、公園を歩いていて、急に校長先生とハゲを思い出すということはありません。あくまで、「小学校」の校長先生ははげていた「なぁ」など、エピソード記憶として思い出されるだけなのです。つまり、意識しないと思い出せない記憶なんですね。皆さんもテスト中に意味記憶を思い出すつもりがエピソード記憶になってしまった経験はあると思います。意味記憶は、エピソード記憶を簡略化していった結果といえます。これはコンピューターにはない「忘れる」という人間の特技の一つですね。

 二つ目の長期記憶は手続き記憶と言います。字を書く、階段を上る、二本足で歩く、ゲームの操作をする。計算をするなどです。これら全ての記憶は生まれつき持ったものではありません。つまり訓練の末に身についた知識なんですね。ですからこれが勉強の本質といえるかもしれません。この記憶は意識しても思い出せないことも気をつけなければなりません。

 三つ目の長期記憶はプライミング記憶と言います。この記憶は次の文章を使って説明します。

 きょうぼくは自転車をこいで学校に来ました。ぼくの自転車はずいぶんの長く乗っているので金属部分がさび付いてキイキイといっています。けど、長く乗っている分、愛着があって、なかなか買いかえれ。ほくがこの自転車を買い換えるのはいつになるんでしょうね

間のいい人はきっと気づいてくれましたね。三度出てきたぼくという言葉に着目してください。三度目のぼくがほくになっています。これがプライミング記憶です。勘違いの元でもあるんです。

さてさて記憶の種類の次は記憶している細胞のお話になります。この二つの準備をして初めて勉強の話が出来るんですね。ですから、もう少しがんばってみてください。

記憶する細胞たち

 皆さんは、脳の細胞がどういう種類の細胞で出来ているかご存知ですか?筋組織とは明らかに違いますね。あとは皮膚や髪の毛のような細胞とも。じつは、脳というのは、神経細胞の集まりなんです。ですから、記憶の仕組みを知るということは、神経細胞の仕組みを知ることに繋がります。

 神経細胞というぐらいですから、一つ一つは別れた形で細胞が連なっています。神経細胞の伝わり方は一方通行で、神経と神経とを繋いでいる部分をシナプスと呼びます。じつは、シナプスに伝わる前とシナプス、そしてその後の受容体で、神経の伝達はまったく異なった方法をとっています。では順を追って説明してゆきましょう。

 神経をまさしく電流が流れるという現象が神経の中でも起きています。ただ、少し変わった流れ方をしているんですね。シナプスの前つまり、伝達されてくる細長い繊維の事を軸策と言います。どのくらい長いかというと、長いもので1m程度といわれています。軸策では、伝達は、ナトリウムイオン(Na)が軸策に並んでいる穴を通り抜けることで伝達が行われているのです。このタンパク質でできた穴(ナトリウムチャンネル)は、実に巧妙に出来ていて、イオンが通るときは穴の内壁がマイナスに、イオンが通れない時は内壁がプラスになっているのです。このように体の様々な部分ではタンパク質がまるで機械のように文字通り働いています。このようなタンパク質のことを分子機械といって、その仕組みはまだまだ研究中でよくわかっていません。

 さて話を元に戻して、シナプスではどうなっているんでしょうか。シナプスにはシナプス間隙という電気的に絶縁された領域があります。つまり神経細胞と神経細胞のつなぎ目ですね。そこではどうやって情報を伝えているのでしょうか?シナプス間隙では、じつは、化学物質によって伝達されています。シナプスにはシナプス小胞という、伝達物質をためておく袋が合って、情報が伝わってくると、この袋をぱっと広げるわけです。そうして、隣の細胞に情報を伝えているんですね。

 じつはこの化学物質の量と記憶とが大きく関係しています。シナプスの後の樹状突起と呼ばれる部分では、化学物質が電位に変換されてしまいます。この電位が高いと、うまく他の細胞に伝搬されるのですが、低いとされません。つまり刺激の強いものは伝わりやすいという性質があるのです。

 さて、物語もクライマックスです。この神経細胞を使って、脳の中で記憶が作られてゆく仕組みをお話しましょう。

賢い脳

 脳の中で、私達が経験した記憶が、一番最初にたどり着くところがあります。それは、海馬と呼ばれる、部分で、脳の一番中心近くにあります。海馬と呼ばれるととおり、タツノオトシゴに似た形をしています。実は、経験した記憶たちは、この海馬から約一ヶ月の間、脳に行かないということがわかっているそうです。つまり、一月の間、その記憶が大事な記憶かどうか、私達の脳は判断しているのです。神経の所で述べたとおり、この「判断」は、シナプスの後つまり、樹状突起と呼ばれる部分での電位で判断されているのです。つまり、一月の間の刺激が何回繰り返されたかや、どのぐらい強い刺激だったかで、記憶されるかされないかが決まってしまうのです。一度記憶されると、ほぼ一生忘れません。忘れたと思うのは、実は神経の繋がりが途切れて、思い出せないだけだということもわかっています。しかも、脳の記憶は、寝ている間に形成されているという説があります。つまり、良く寝てよく学んだ人が良くできる人になるのです。楽して覚えた知識は、使わないと消え去ってゆくだけだということを意識しておいてください。

 海馬は所で、脳の中で唯一増加する細胞だといわれています。もちろん使えば使うほど増えます。ちなみに小さい頃はこの海馬は殆どありません。幼児期健忘といわれる、子どものころの記憶がない原因は、このことに起因しています。海馬の細胞の増加は、一度に学習できる量が増加できることを意味します。頭は、使えば使うほどよくなってゆくのです。

長い文章を読んでくれてありがとうございました。最後に、みんなが勉強な苦手な数学を例にとって勉強のやり方をお話します。

 数学を勉強する時にどんなことを意識していますか?

数学を勉強する上で一番大切にしなければならないのは、どんな風に考えたのか、つまり思考過程です。三角関数と呼ばれるsincosは長さが1の円を通る点を考えて、その点の高さがsin横がcosだというイメージは、勉強した人には出来ると思います。こうしたイメージは非常に大切でsin30°が1/2だという事よりも、とっても大切です。ですから、最初のうちはsin30°が1/2だと考えるほうが簡単かもしれませんが、何度も何度も、長さが1の円を通る点を考えて、その点の高さがsin横がcosだと考えることで、いろいろなことに使えるsincosのイメージを捉えることが出来るんですね。今は便利な時代ですから、値はコンピューターが出してくれます。しかし、問題にどんなイメージを持つべきかということに関して、コンピューターは無力です。ですから、考え方を学ぶ。しかも繰り返し繰り返し、同じ考え方を用いることで、記憶してゆくのです。非常に当たり前かもしれませんが、これがベストだと、科学の目線から言うことが出来ます。

 これはまた、他のことにも言うことが出来ます。例えば楽器を練習する時、ドレミファソラシドを口に出しながら、練習していると、いつかその記憶は作業記憶に変わってゆきます。つまり、ドとドの音の出し方が、あなたの中で等しくなってゆくのです。楽譜もそうですね。

 また、スポーツでもそうです。最初はうまくけることが出来なかったのに、繰り返すうちに成功した記憶を繰り返しえることで、うまくけることができるようになります。

 頭の仕組みを知れば知るほど、天才と呼ばれた人たちが、実はぼくらと、さほど変わらないのではないかと思ってしまいます。ただ、彼らは非常にいい勉強のコツを身につけていたんでしょうね。大切なのはコツです。皆さんくじけずに勉強してください。

2007/01/03

科学と研究

◆はじめに
前回は「科学とは」という問いに対して「思考様式である」という結論を導いました。
詳しくは前回「科学とは」を参照を参照してください。

今回の話は、前回の続きで、その研究手法についての話です。
科学は、現象に依拠した原理を立てることによって、合理的に説明すること
と話しましたが、今回は

「現象」とは何なのか、
「原理を立てる」とは何なのか、
「合理的に説明」とは何なのか、という話です。

ここでのキーワードは必要十分条件です。

◆準備
必要条件とは何だったのだのでしょうか。
必要条件とは、
任意の(ありとあらゆる)集合Aにおいて、
ある〔集合である〕事象(評価する対称)Bが存在して、
その事象Bが、集合Aを含む時、
事象Bに対して、集合Aが必要条件であるという。

十分条件とは何だったのでしょうか。
十分条件とは、
任意の(ありとあらゆる)集合Cにおいて、
ある〔集合である〕事象(評価する対称)Bが存在して、
(ここまでは同じ)
その集合Cが、事象Bを含む時、(逆になってることに注意)
事象Bに対して、集合Cが十分条件であるという。

簡単に言ったら、集合の元(要素)の数は
A<B<C
っています。(お分かりいただけたでしょうか…)

◆歴史的背景
近代科学が生まれたのは、間違いなくヨーロッパです。
そのヨーロッパにおいて、大きな派閥が存在しました。
イギリスとフランスにおいてのことです。
彼らは、帰納法と演繹法という二つの手法のどちらが、
科学をするうえで正しいのかという点で、争っていました。

帰納法とは、様々な情報や経験を元に
自然法則を見つけようという視点です。

演繹法とは、様々な仮説を元に、
自然法則を説明しようという視点です。

この争いは、実は両方を用いることが正しいという決着を得ました。
すなわち
帰納法とは実験であり観測あり、
演繹法とは理論であり仮説であります。

ここに近代科学の基礎ができたといっていいと思います。

◆科学の中の必要十分

この争いは、実は両方を用いることが正しいという決着を得ました。
すなわち
帰納法とは実験であり観測あり、
演繹法とは理論であり仮説であります。

と申し上げました。
では具体的な、研究過程とはどのようなものなのでしょうか。

帰納的な研究、つまり実験や観測によっては、正確に現象を捉えることができても
その背後にある、要素にまで迫れません。

演繹的な研究、つまり理論や仮説を立てることによっては、現象を説明することができても
机上の空論、つまり、実際にそうであるかという部分が欠けています。

ここで持ち出したいのは、
冒頭で述べた、必要と十分です。

実験や観測によって、現象に迫る手法は、
観測結果が、ある現象を「含んでいる」ことはわかっても、
その現象だけであるとはいえません。

例えば、時間と位置と温度を測定したとしても、
実際に、現象に関わるものがそのうち二つしかない(実際にはそれすらわからない)
情報過多になり、何が本質かを見極めなければなりません。

つまり、現象よりも大きな事象を観測したことになるのです。
これは必要十分における、
事象に対しての十分条件に他ならないといえます。

理論や仮定によって、現象に迫る手法は、
それらの仮説によって成立した事柄から、ある現象の「要素(らしきもの)を特定できた」といえても、全ての要素が捕らえれたわけではありません。

もしそうならば、この世の中の根源的な物理法則を見つけたことになります。

つまり、実際の現象よりも小さな事象を説明したことになるのです。
これは必要十分における、
事象に対しての必要条件に他ならないといえます。

簡単に言ったら、集合の元(要素)の数は
A<B<C

といいましたが、
研究において、
(理論)<(現象)<(実験)

であり、より現象に迫った理論や実験をすることによって
真理に迫ろうというのが科学的研究手法です。

◆科学と必要十分から何が言えるのか。

この研究手法は、もちろん科学的です。
つまり、原理原則を、現象に依拠することによって
覆す可能性があるのです。

しかし、実際には覆すという言い方は正しくないかもしれません。
前回も、特解であると言いましたが、

ある仮説が、ある事象を説明できたと言うことは
要素自体は含んでいたことになります。

したがって、それまで立てられた理論を、
もう一度、新たな要素を含む(またはより根源的な要素を仮定する)すとによって
理論を立て直す必要が生まれます。
これによって、それまでの視点が覆る可能性があるということなのです。

少し首尾一貫していませんが、
仮説から理論を導くので、
仮説が十分現象を捉えきれていなければ、
理論が間違っているということがあるということに、
注意してください。

科学は厳密に現象を捉えることは可能ですが、
理論から生まれた、科学的知識が、普遍性があるとは限りません。
むしろ、正確な議論ほど、
「~である可能性が高い」「~と考えられる」といった、
現象に対する謙虚さが必要になります。

「買ってはいけない」と断言することは言語道断ですし、
「買ってはいけないは買ってはいけない」と言うことも言語道断です。
そもそも、断言できるほどの知識など、人間は持ち合わせていません。
あくまで、可能性があると言うのが正確な議論になります。

この点を勘違いされている方が多いと感じています。
ご注意ください。

◆おまけ

ちなみに、こうやって議論をすること(論を述べること)は
一般に、必要条件を繰り返し用いています。

つまり、これが成り立てば、これが成り立たなければならないといっています。

皆さんが、あっそうだなと感じた時に、
つまり、経験と照らし合わせて、それに合致したときに、
必要十分に近づきます。

しかし、人間の現象を捉える感度は、
変化に対して敏感なのは確かめられているようですが、
それが、正確に現象を捉えることに繋がらない(基準がそのつど変わる)
ので、必要の部分がいくら正確であっても、
十分性を人間の感覚に頼るのは危険です。
ご注意ください。

(と言ってしまうと、この議論すら無意味意なるのですが…)

2006/12/29

科学とは

◆はじめに
いろいろなところで述べてきましたが、
「科学」という言葉に対する一般的な認識は
あまりにも曖昧で、
かなり科学者の意識とかけ離れたものになっています。

今回のお話は、科学という言葉をどう認識したら良いか
という議論から始まって、最後に、十分合理的な
「科学」の新定義を提案します。

この定義を用いると、科学という言葉が、
歴史的に哲学から出発していながら、実は
哲学そのものを含んでいたという結果に至り、

また、科学という手法が、(文系理系関係なく)
ありとあらゆる分野において、十分意味のある研究手法であったことが、
また、如何に重要であることかがわかると思います。

今回の私の提案によって、少しでも合理性で
効率的である社会の実現を願っています。

◆科学批判
臨床心理学者で元文化庁長官の河合隼雄による
科学批判という文章を浪人中に読んだことがあります。
科学は人間性を抜きにした論理を組み立てたことによって
核兵器や環境破壊などが起きたという議論です。
僕は、このような議論には、科学への大きな誤解があると思います。
それは、科学と科学技術との違いです。
後述できっちりと定義いたしますが、科学と科学技術は
知恵を生み出すことと、知恵を使うことという根本的な違いがあります。
知恵を生み出すことによって、環境破壊も核兵器開発もできません。
あくまでその生み出された知恵を人間がどう使うかという議論に至るのです。
つまり、人間性を抜きに論理を組みたことによってという部分が完全に
間違った議論となります。
人間が使うから、つまり、人間性によってその知恵が悪用されているといわざるを得ません。

◆科学を定義する
では科学とはなんなのでしょうか。厳密に定義したいと思います。

科学は、自然科学だけのものなのでしょうか?いえ、違いますね。
社会科学、人文科学、発達科学 等、じつに多様な科学が存在します。
つまり、科学を定義する上で、これらを合理的に内包しなければなりません。

しかしながら、もし自然科学ではないとなると、我々がイメージしてきた科学は
実際には、崩壊してしまいます。
つまり科学的とはなんぞやという議論に至るのです。

科学は言うまでもなく、哲学から生まれた、合理的なものです。
ギリシア哲学において、全ての根源は何かという問いに答えることが
この科学という曖昧に扱ってきたものを捕まえる鍵になるかもしれません。
私は、この根源を求める問いへの答えとして、それは数であると答えた、
ピタゴラス学派と、その考え方を逆理(パラドックス)によって批判したエレア派に
科学の源流があると考えています。
当時の学派というのは、魂の浄化を願ったりと、
どちらかというと宗教色が強かったことはとどめておかなくてはなりません。
この二つの学派の論争は非常に重要なものをもたらしてくれたのではないかと考えています。
それが、ユーくリット学派によって生み出された(幾何)原論です。
重要なのは、この言論の中で、
公理(それ以上説明できないもの)
公準(議論に必要な基準)
定義(議論を展開する上で必要な要素)
を用いていることにあります。
さらに、その証明法において、背理法が使われていることも特筆すべきことなのです。
これは、例えば漢文の世界で、韓非子が矛盾という言葉を物語によって生み出したごとく
後の議論をしやすくしてくれた重要なエッセンスなのです。

幾何学は、実際にある図形を抽象化し、その図形同士の関係を
背理法によって合理的に説明しました。

まさにここに科学があると思います。

現実の現象に対して、結果が存在し(実験結果など)
その結果を、如何に合理的な要素を内包することによって
説明することができるのか

ということです。

つまるところ、科学はあくまで考え方という事を強調しておきます。

では科学を定義しましょう。

科学とは、
自然現象(人間を含む)に依拠した結果を基にして
その要素が何であるかを仮定することによって
理論を立て、検証してゆく作業。

じつはここで重要なことは、基準があくまで自然界にあるということです。
現象を正確に捉えることによって、その要素を検証するわけですから
常に、原理や法則は変更可能性があります。
言い換えるなら、それらは、あるとき成立する一つの特解というべきでしょう。
あるいは近似ともいうことができます。

このような合理的な現象作業は、所謂、理科学においてのみ成立するわけではありません。
現象に依拠していればまったくなんであってもかまわないのです。
ここに、種種の科学が存在する理由を説明できたことになるのです。

◆哲学と科学
哲学において、近年の問題は個々人から出発して
論理的に様々なものはどうであるかという検証がなされています。
無論科学に対してもです。
しかしながら、現象に依拠した科学は、実際
脳科学や、医学といった、人間自体もその対象となっています。
つまり、哲学において基礎、基準(公理や公準にあたるものかもしれません)となっている
モノすらも、科学はその対象としており、
したがって、個々人という科学の対象であるものの上からの議論である哲学は
実際問題、科学に含まれているということになります。

議論や理論において、どちらが歴史的に古いかなど
まったく持って意味を持ちません。
その点を誤解している方が多いのではないでしょうか。

◆科学の重要性
科学は、歴史的に見ると、これまで人間が獲得してきたなかで
最も正確かつ的確に現象を捉えています。
つまるところ、科学的に考えることが
正確さや的確さにおいて非常に意味のあることなのです。
したがって、科学という思考手法が検証法が
現段階で最も優れており、万人が身につけることによって
様々な問題を解決しうる手法であると、いうことができます。

皆様が、この思考法を身につけられ、
より良い社会が実現することを願っております。

2006/09/04

9/4

今日はメガスターを見に行ってまいりました。
メガスターとはご存知の方もいると思いますが、Nessreがやってるコマーシャルで唐沢敏明と誰かさん(大平さん)が出ているCMをご存知と思います。
実は、あのコマーシャルのプラネタリウム、ギネスを取っているんですね。どんなギネスかと言いますと、なんとその星の数。
作られた太平山は、小学校のころからプラネタリウム製作をし始めて、大学時代には自作のプラネタリウムを学園祭で披露。卒業後どうも、就労しながらメガスター1を作っていたようです。
転機は、国際天文学会に友人の紹介で出席した時。論文の発表等を済ませた後、実演をして魅せるのですが、両手で持てる大きさのプラネタリウムを使って、なんと140万個もの星を、エアドームに投影させたのです。会場からは拍手喝采。なんせ、当時(現在でも)、販売されていた大手メーカー製のものであっても、その星の数は3,000~30,000それを一気に1,400,000まで増やしたのですから、びっくりするのも当然です。

現在、このメガスターは改良を重ねられて、メガスター2として4,100,000個の星を天球に投影しています。このメガスター2は1と同様、持ち運びできる大きさのもの。僕も実物を見た時は、え?これでと思ってしまいました。メガスター2は3台現在のところあり、東京の日本科学未来館(毛利衛 館長)と川崎少年科学館、あと巡回ようのものです。ギネスはちなみに科学未来館。館と共同開発で5,000,000個の星星が輝いています。

こんなものを個人で作ってしまうんですから、感服する以外にいいようがありません。

僕が行った時、ヒルトンプラザ イーストの一回には、大きな白いエアドームと整理券受け渡し窓口がありました。エアドームの大きさは、大体高さ2,3mほど。幅はその二倍ですから5,6メートルといった具合です。一回の定員が30人。少ないですが、巡回できるのだから仕方ありません。

待ち合わせる人と連絡を取ると、外にいるとのこと。先に着いたのに何で並んでないのと思っていると、なんと外には凄い列。まえの組が終わったのにもかかわらず、そこにはすでに30人以上の人が並んでいました。初日で、宣伝をあまりしていない(僕は朝日新聞の小さな広告で見つけた)のにもかかわらずなんというという感じだったのです。

中で映し出されたのは満天の星空。そう思い込んで、見ていたのですが、大阪から南国の島、北国へと移り変わるにつれて目が闇になじんできて、天の川の星が輝き出しました。


まさに天に抱かれる心地とはこのことでしょう。
天の川の表情と、巡ってゆく星々の姿に、ただただ感激するばかりでした。

昔は、どんな所でもこんなものが見えていたんですね。
そう考えると、人は、ものすごく大切なものを(精神的に)失っている気がします。

は~良かった~


もっかいいこっと!